【ループ1回目】

それは突然起こった。
ちょうど188日目が終わる瞬間だった。

研究所で充てがわれた自室で寝ようとしていたら、見えない力に身体を押しつけられるような、経験した事のない重圧に襲われた。
気付けば、手には半年前に読み終えたはずの本が握られていた。
着ていた上下のスウェットもジャケットとジーンズに変わっている。
携帯を見て、188日前の午後5時に戻ってきたと確認した。
午前0時の夜から、突然夕方になったのだからある意味とても分かり易くはあった。
当然、季節も春から秋へと逆戻りだ。
夏や冬のような衣替えが必要ない季節なのがまだ良かったのかもしれない。

(本当に成功していたんだ。正直にいうと半信半疑だったんだよな)

鬼は平気で嘘をつく。
だから俺は騙されているのかも、と心のどこかで思っていた。
記憶は失われず、そっくりそのまま維持できている。
これも鬼の言う通りだった。

(半年前に読み終えた本を持っていたと言う事は……俺の体も以前まで巻き戻ったんだな)

姉さんが作り出した、夢と現実の狭間にある隔絶された空間。
それが逆戻りしたのだから、当然身体にも影響は出てくる。
だけど実際に自分の身に起こってみると、奇妙な感じだった。

『春樹。聞こえているか』

驚いている俺に突然、交信が入る。
姉さんそっくりの声なのにぶっきら棒な言い方、これは間違いなく鬼だ。

『今、貴女の言う通り胡蝶の夢で時間が巻き戻ったんだ。こんな事とても信じられないよ』

鬼に向かって興奮気味に話をする。
本当に姉さんには奇跡を起こす力が備わっていた。
それが目の前で証明されたのが、なぜかすごく嬉しかった。

『そんな話はいい。至急、お前の家まで車を手配するんだ』
『一体、どうしたのさ』
『今、御門冬馬を殺した。直ぐ回収しに来い』
『えっ!? 今?』
『そうだ。この方法が一番早い』

(そうか。俺が殺した事実も跡形もなく消えたのか)

大きく心に占めていた罪悪感が薄れた気がした。
肩の荷が下りるという言葉が一番しっくりくるかもしれない。

御門先輩の死を嘆く姉さんを毎日見てきた。
とうとう自傷行為まで繰り返すようになってしまった。
そんな苦しそうな姉さんを見ているのが、とても辛かった。

(でも、もう見なくて済むはずだ……)

心の中でホッと胸を撫で下ろす。
鬼が意識を乗っ取ったまま研究所まで戻ってしまえば、姉さんは自分の手で殺した事を知らないはず。

こうやって毎回鬼が殺してくれれば、俺も姉さんの世話だけに専念できる。
自分の手を汚さない分、前回より気が楽だ。
犠牲も最低限で済むし、取り巻く状況も以前よりずっと良くなるだろう。

『分かった、兄さんにも伝えておく。直ぐにそっちへ向かうから絶対に動かず、大人しく待ってて』

俺は再度携帯で日にちと時間を確認して、直ぐに部屋を出た。


監視部屋に連れてきて、4日。
姉さんが目を覚ました。
本当は直ぐにでも飛んでいきたいけど、姉さんとの接触は鬼から止められている。
だからモニター越しに、様子を見る事しかできない。

「ここは……そうか。私、軟禁されてたんだっけ」

姉さんは起きて直ぐ、右手を頭上まで掲げた。

「夢じゃない。やっぱり冬馬先輩の印だけ無い……」

両手で顔を覆って、肩を振るわせて泣き出した。

「罠だって分かっていたのに。私が春樹を助けたいって言わなければ……こんな事にはならなかった……」

(どうなってる? 全て巻き戻ったんじゃ無いのか?)

「ごめんね……冬馬先輩……みんな……」

時々後悔の言葉を漏らしながら、姉さんは泣き続けた。

「知りたいよ。先輩を刺したのは……誰……?」

そう呟くと、泣き疲れたのかそのまま寝てしまった。
姉さんの手には御門先輩から譲り受けたペンダント型のロケットがずっと握られたままだった。

俺はモニターを切って、大きく息を吐く。

(これじゃまるで以前のままじゃないか)

鬼は巻き戻れば全てがリセットされると言っていた。
実際、細切れの肉になった御門先輩も元通りの姿で横たわっていた。
確かにその姿を自分の目で確認した。
だから俺自身も実感できたはずだった。

(なのに……なぜだ)

俺は急いで監視部屋へ向かう。
鍵を使って、重い扉を開けた。
ペン立ての中にあるカッターナイフを上着のポケットに仕舞った。

「春樹、直ぐ戻せ。ここにある備品を持ち出す事も禁じていたはずだ」

いつの間にか、背後に姉さんが立っている。
正確には姉さんの姿をした鬼だが。

「でもこのカッターがあると……」
「それはお前達に必要な小道具だ」
「小道具? どういう意味だ」

俺は鬼に向き直って尋ねる。

「まだ分からんのか。戯れの邪魔をするなと言っている」
「戯れ……?」
「御門冬馬の殺害の記憶を消してくれとわたしに頼んだだろう? だから犯人の姿だけ器の記憶から消してやった。願い通りだろう?」
「犯人? 4日前に御門先輩を殺ったのは、俺じゃなく貴女じゃないか」

ループした瞬間に前回の事実は消え去り、当然、記憶も姉さんから綺麗に消えているはず。
なのに姉さんはロケットを握って泣いていた。
俺を助け出そうとして捕まってしまった……さっき確かに言っていた。

「まさか……」
「お前が消してくれと頼んだ時、とても良い事を思いついたんだ。ループ前の記憶をずっと持たせたまま巻き戻したらどうなるか、とな」
「……そんな」
「ただ肉を喰うだけではつまらんからな。余興としてはなかなか面白いだろう?」

(ループ前……俺が殺した時の記憶ってことか)

何度やり直しても、自分の腕の中で死んでいく御門先輩の姿を忘れる事が出来ない。
鮮明に残り続ける辛い記憶。
あんな絶望に染まった姉さんの瞳を見た事は今まで一度もなかった。

(そんなの……姉さんにとって拷問じゃないか)

「余興?戯れ? ふざけるな!」
「あははっ! そうやってムキになるのが滑稽で本当に笑える」

姉さんの姿をした鬼が下品に高笑いをする。

「だからこれも返してもらうぞ」

俺の上着のポケットのカッターナイフが浮き上がり、スッと鬼の手に吸い寄せられる。

「これでお前の罪も永遠に消える事はなくなったな」
「俺の……罪……」
「器が泣けば殺したお前は苦しむ。器が自分を傷つければ殺したお前も傷つく。こんな面白い事、他にないだろう」
「面白くなんて……」
「器を騙し続ける手段としても悪くない。春樹、とても良い提案をしてくれた事に感謝するぞ」

鬼はナイフの刃をカチカチと出して、姉さんの腕に細い線をつける。
そこから薄っすらと血が滴り始める。

「やめろ!!」
「わたしが傷つける事と、愛する者を亡くした苦しみに耐えられず傷を作る器。大差ないだろうに」
「違う……」
「何が違うと言うのだ。自らを傷つける器は所詮、半鬼でありながら人の子として育った貧弱な出来損ないだ」
「それ以上、姉さんを悪く言うな」

(そうさせたのは……命令されるままに殺した俺なんだ)

姉さんは何も悪くない。
本当にお人好しで馬鹿みたいに優しい。
他人が傷つくのも放っておけない人だ。
だからこそ苦しみ、自分を傷つけるまで追い込んでしまった。

「姉さんに傷をつけるなら、そのナイフは返してもらうからな」
「嫌だと言ったら?」
「力ずくで取り返すだけだ」

(腕が綺麗に元通りになったのに、またケロイドだらけにしたくない)

俺はカッターナイフを持ったままの鬼の手に掴みかかった。
白く華奢な手首を力一杯握る。
カッターナイフを持った鬼の手がみるみる赤く鬱血していく。

「い、痛い……やめて……春樹」

姉さんが苦痛に顔を歪ませていた。

「はっ!……ご、ごめん」

反射的に謝って、俺は慌てて手を離す。
その様子を見て、姉さんはハハッと笑う。

「指の跡がくっきりついてしまったよ。本当に酷い弟だな、お前は」

(姉さんと鬼は一心同体。手の出しようもない)

そもそも鬼に逆らえば姉さんの心は消される。
最初から服従の道しか残されていない。

(くそっ……!)

能力を得れば、姉さんを守れると思い込んでいた。
苦しみの末に赤い剣を手にした時、何でもできる気がした。
興奮と嬉しさでその日は寝られなかった。
でも現実は全く違う。
契約までしてたのに、ただ鬼の駒として便利に使われているだけだ。

(こんなはずじゃなかった……)

子供の頃から何度も味わってきた出来損ないという『無能』感。
それを一番強く感じた瞬間だった。


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最終更新:2022年03月23日 11:35