【ループ22回目】
凶器になるほど厚みがあり、装丁は黒一色。
表題は銀の箔押しで、重量はあっても崩れる事なくしっかりしている。
しかも中身は全部英語。
専門用語が何度も何度も執拗に出てきては、訳す側の俺の手を止めさせる。
遺言で『夢を忘れるな。本棚から好きなのを持っていけ』と言う。
3回のループに1度、彼から能力を奪う度に言われる。
今回は周防さんの蔵書のなかでも特に立派なものを選んだ。
(飛び級で医師になるため海外留学していたって裕也さんから聞いたけど……だからって全部洋書はある意味嫌がらせだよな)
特に精神科関連の本が多めなのは彼の専攻だったから、らしい。
心を読む能力者が精神科医だなんて、よく病まなかったよなと思う。
同じ高村でも秋人兄さんはゲノム医療が専門らしく、この研究所もそういった類いのための設備も資料も充実している。
父や兄の研究で重要なものは街に移動させたり、多くは処分されてしまったらしい。
倫理観のない行いが公になる事を恐れての事だ。
もう昔のような強い影響力は高村には無くなってしまった。
机には周防さんの本、電子辞書や医学辞典、ノート、シャーペン。
それと消しゴムのカスが散乱していた。
(ちょっと集中してやり過ぎたかな)
時間を見ると12時を回っていた。
もうそろそろ彼女の時間かな、と思った所で乱暴に扉が開き、ズカズカと裕也さんが入ってきた。
「坊っちゃん、小娘がお呼びですぜ」
「ちゃんとノックして入ってきてよ」
「すみませんね。毎度のことなんだから、いちいち目くじら立てないでくださいな」
「怒ってない。ただ人としてのマナーを注意しているだけだよ」
そんないつものやり取りの中、裕也さんが俺の机を見ていた。
俺の手元のページが気になっているようだった。
「どうしたのさ?」
「周防の所から持ってきた本、もうここまで進んだんですかい?」
「うん。周防さんのお陰で英語に強くなったかもね」
開いていたページにスピンを挟んで、閉じた。
栞代りの紐の名前がスピンだと教えてくれたのは、確か母さんだった。
「律儀にアイツの遺言を守ってやるなんて、坊っちゃんは優しいなぁ。俺なんかこんなの見たら秒で寝ちまう」
「やる事がある方が気が楽なんだ。きっと周防さんも見抜いていたんだよ」
「勉強ってのがまず無理だな」
「分かってくると楽しいよ。最初は大変だったけどさ」
「そんなもんですか……俺は一生分からなくて良いや」
周防さんは夢を忘れるなと言う。
俺の夢は外科医師になる事。
一番憎んでいた男と全く一緒の職業に就きたいなんて馬鹿げていると自分でも思う。
多くの関連病院を束ねる家系に生まれ、父や兄のように医師になる事を義務づけられていた。
だから当然『僕も……』と、小さい頃は思っていた。
今の俺は『大堂春樹』で医師になる事を義務づけられてはいない。
それでも夢は変わらなかった。
「三つ子の魂百まで」とは昔の人はよくいったものだな、と感心してしまう。
(さて、そろそろ行かないと鬼の機嫌が悪くなりそうだ)
夢を叶えるという事はこのループを終わらせるという事だ。
188日間をループしている限り、時間が動き出す事はない。
果てのない白昼夢のような世界。
この世界の女王に会うため、俺は重い扉を開けた。
「遅い」
開口一番、叱られてしまった。
「俺にだって都合があるんだ。すぐに来れないこともあるさ」
「お前の言い訳など、どうでもいい」
「じゃあ、反省するためにこのまま帰るよ」
俺は引き返そうと、踵を返す。
その様子に、鬼は慌てて言う。
「ま、待て。頼んでいた例の物は持ってきたんだろうな」
「姉さんに出した夕飯のスープに入れただけどね。はい、どうぞ」
俺は紙袋からスープジャーを取り出して渡す。
女の子らしい淡いさくら色。
このジャーの可愛らしい色は彼女自身が決めたものだった。
「わたしの好物、ちゃんと入っているのだろうな」
「もちろん。言いつけ通り、煮込みすぎないようにしたよ」
本当は生を食べたいらしい。
解凍しながら使っているし、感染症などの心配もあるから俺が強く反対した。
だからループ中は必ず加熱調理して出す事になっていた。
鬼は機嫌を良くしながら、スープジャーの蓋を開ける。
そして一口啜って、すぐ真顔になった。
「臭うな」
「何が?」
「別の味がする」
「別の味?」
味を再度確かめるようにスープをペロッと舐めて、今度は俺に顔を近づける。
鼻が鼻がついてしまいそうなほどの至近距離だった。
「この臭いは……春樹、お前か」
「俺?」
「そうだ。お前の……味がする」
(やっぱりこの方法も無理か)
「ごめん。調理中に指を怪我してさ」
左手の人差し指を出して、絆創膏を見せた。
「余計な物を入れるな。直ぐに新しいものを持ってこい」
「でも目はあと一つしか無いよ。それを捨ててしまって良いのか?」
鬼はしばらく考えて、もう一度スープジャーを握った。
姉さんの食べ物には入れられない大きな部位。
目玉のような加工が難しく、見た目で分かってしまうような場所は鬼本人に食べてもらっている。
御門先輩を食べている事を知らない姉さんに、気付かれないための配慮だった。
「仕方がない。……目玉だけ食おう」
「そうしなよ。貴重なものだしさ」
鬼はスプーンで掬って、ツルンと口の中に入れた。
数回の咀嚼の後、ゴクンと飲み込む。
一回目の俺だったら、この様子を見ていられなかったかもしれない。
でも今は、全く抵抗を感じない。
(さすがにこんな少量の摂取じゃ効果は見込めないか)
鬼は異常に味覚がいい。
人の感じる美味しいとか不味いではなく、良い獲物かどうか判断できる味覚が発達している。
彼女にとっては異物でしかない俺の血液も簡単に見破られてしまった。
姉さんの料理下手は、鬼が持つ本来の味覚が強すぎたせいかもしれない。
本当は……スープまで全部飲み干して欲しかった。
これじゃ、能力を弱める毒の量が足らない。
(この方法が駄目なら、手段を選んでいられないか)
「美味しかった?」
「ああ」
「良かった。喜んでもらえて」
「お前の血の味が混ざってなければもっと美味しかっただろうな」
「ごめん、次からは気をつけるよ。壱与」
名前を呼んだ瞬間、鬼の眉がピクンと吊り上がる。
俺を睨みながら低い声を出す。
「わたしは壱与ではない。その名で呼ぶな」
「壱与じゃないなら、貴女を何て呼べばいい?」
「わたしは愛菜だ」
「わかったよ。愛菜」
鬼の言う通り、姉さんの名を呼んだ。
すると鬼はさらに不機嫌に怒り出す。
「違う……!」
「違う? 自分で言っておいて貴女は愛菜じゃないのか?」
「わたしは……」
鬼が固まってしまう。
そして頭を抱え込んだ。
「わたしは正子……」
「正子。それが貴女の名だね」
「違うわ。わたしはすゑ(すえ)よ」
「すゑ。この名でいい?」
「わたしはつる。おつるって呼んで欲しいの」
「おつる。かわいい名前だ」
「違う……違う……」
鬼は頭を横に振って否定した。
無理もない。
彼女達には巫女だった時のそれぞれの名前があって、それが全部名乗りをあげる。
と、同時に集合体である鬼そのものには特定の名が無いのだ。
今の彼女は一個体として統制がとれなくなっている。
心が千々に乱れ、完全に混乱している。
鬼の弱点。
それに気付いたのはまだ最近のことだ。
「少し落ち着こうか」
スープジャーを鬼から奪って、机に置く。
そしてそのままベッドに座らせた。
「わたしは……わたしは……」
「大丈夫。俺がいるから安心していい」
俺は抱きしめるように、ゆっくり鬼を押し倒す。
ダブルベッドが二人の重みで沈み込む。
その顔からいつもの横柄さは消え、不安に怯えた子供のように頼りなかった。
「わたしは……誰……だ」
「俺に教えて。貴女は誰?」
「おおぜい居る。だから、わからない……」
「辛そうだ。大丈夫?」
「おおぜいなのにひとりぼっち。さみしい。くるしい……」
俺が見下ろしているのは本当に誰なんだろう。
身体は間違いなく、姉さんだ。
姉さんの姿をした何者かが、眉間に皺を寄せて苦痛に耐えている。
「汗までかいて……苦しいんだね」
「ひとりぼっちはいや….…だ」
「高圧的な態度もとれないんだね。いつもの上から目線は……貴女が抱える淋しさの裏返しかもしれないな」
煽ってみても、弱々しく懇願するような瞳で見つめてくるだけだった。
彼女の弱点を知ってから、俺の中で鬼を見る目が変わり始めた。
と同時に、心にフッと暗い炎が灯る。
「助けて……」
「助けてって……誰に?」
この部屋には鬼と俺しか居ない。
分かりきった意地の悪い質問で、彼女からマウントをとる。
「おまえに……」
「お前、じゃわからないな」
「春樹……」
「そうだ。ちゃんと言えるじゃないか」
今この瞬間は、俺が支配している側だと思い知らせたい。
征服を願う欲望が、背筋をゾクリと震わせた。
「……助けて欲しい」
「俺にどうして欲しいのさ?」
「……わたしは何者だ?」
「俺も知りたい。だから貴女の名前を教えて欲しい」
「わたしは……わたしは….」
涙を浮かべ、潤んだ瞳で俺を見ている。
身体は震えていたが、頬だけは紅潮していた。
俺は右手でゆっくり彼女の頬に触れた。
彼女は俺の手に頬を寄せて手を重ねてきた。
不安を人肌の温もりで打ち消そうと、重ねた指を絡めてくる。
「可哀想な人。いいよ、貴女が何者か一緒に探してあげる」
組み敷いたまま、俺は彼女の唇を落とした。
ほんの少し触れる程度。
それを何度も執拗に繰り返す。
彼女はもどかしそうに身をよじり始める。
そして閉じていた唇が花開くように緩んでいった。
その柔らかい口内に自分の舌を差し入れていく。
時間をかけて、ゆっくりと舌を絡めて歯茎をなぞった。
彼女の吐息が甘い声音に変わっていく。
憎いばかりだったはずなのに、長い時を共にしていく内に違う感情を抱き始めている。
共依存なのか愛情なのか。
幾度も唇を重ねている内に、錯覚しただけなのか。
姉さんに抱く親愛や憧れに近い気持ちとは別の、破壊欲求に近い衝動。
抑圧された歪んだ気持ちを込めて、彼女の口内を隅々まで犯していく。
俺の理性もこのままでは全て吹き飛んでしまいそうだった。
(流されちゃ駄目だ。……辺津鏡、彼女の心を俺に見せてくれ)
死ぬ間際、周防さんは俺の中に細工をしていってくれる。
どういう理屈かはわからないけど、感覚的に能力が扱えるようになっていた。
ただ、能力の発動条件が周防さんのように触れさえすればいつでも誰でも……とはいかない。
心につけ入るには、弱らせるための毒と受け入れてくれるまでの準備が必要だった。
意識だけになった俺を、溶け合う彼女の中に流し込んでいく。
その心の中は空虚なのに混沌としていた。
水中の様な暗さと息苦しさもあり、同時に心地良さもあった。
わずかな光を頼りに、放置されたままの画像ファイルに似た記憶のカケラを索引していく。
脳神経の網目を掻い潜り、彼女達の無秩序な記憶を探る。
何度かダイブしているから、見つけ出す事はそれほど難しくない。
(あった。これだ)
姉さんに関する記憶を取り出して、油断や侮る気持ちを増幅する様に改竄していく。
鬼の心の一部はウイルスに侵されたデータの様に、似て非なる物へと変化していった。
同じ方法で今起きた出来事もデリートしてしまえば全て終わりだ。
(よし。戻ろう)
全ての工程を終えて浮上しようとした瞬間、何者かに足を掴まれた。
足元に目を向けると、人の形をした黒い霧が俺の足首を両手で引っ張っている。
二つの穴が空洞になっていて、くり抜かれた目のようで不気味だった。
ファントムに似たそれは、俺をもっと奥へと引きずり込もうとしていた。
(何だこれ……形式が違うし、記憶じゃ無いよな)
「戻りたいんだ。頼むから離して欲しい」
「ワレノ封印……トク」
しゃがれた老婆の様な声。
耳障りで聞いていられない。
「封印? 何のことか知らないけど、俺は急いでるんだ」
この施設は遮断の結界が張られていて霊気が届かない。
だから俺の命が能力発動の供物になっている。
ここで死んだら今までの記憶が全て無くなってしまう。
振り解こうともがいても、俺から一向に離れてくれない。
「手を離せ! お前にかまけている時間は無いんだ」
「ワレハ黄泉醜女……封印……ヲ」
(黄泉醜女だって?)
「おい、お前が黄泉醜女なのか?」
「ワレ……ヲ」
「黄泉醜女なら、お願いだ。姉さんに力を与えてあげて欲しい」
「ワレヲ……開放……」
「頼む。姉さんには鬼より強い能力が必要なんだ」
(駄目だ。話が通じない)
俺は身を屈め、黄泉醜女が身に纏っている布のような物を掴むと、無理矢理近くまで引き寄せた。
二カ所の空洞には何もないのに、なぜか目が合った気がした。
「お前が巫女の力の源なんだろ?」
「ソウ……」
「この世界を終わらせるには、その力が必要なんだ」
「ヒツ……ヨウ」
「だから頼むよ。姉さんに力を与えて欲しい」
「オマエ.…ハル……キ」
「そうだ。でも……どうして俺の名前を知っている?」
そう尋ねた瞬間、黒いモヤは闇に還るように音もなく霧散してしまう。
と同時に、握り締めたままの布から黒色だけがはらはらと剥がれ落ちていく。
手に残ったのは細長い、とても綺麗な布だった。
(この布、どこかで見たことがある)
透けるように薄い、天女の羽衣のような絹布。
ストールのようなそれは、薄いピンク色で鬼の選んだスープジャーと同じ色味だった。
(もしかしてこの布は)
とりあえず、ここから出ることが先決だ。
俺はその布を握り、一気に浮上していった。
目を開けると、すぐそばに姉さんの顔があった。
鬼は目を閉じて、規則正しい息をしている。
(そうだ。さっき握っていた布は)
握った手を開けてみても、何も持ってはいなかった。
(守屋が壱与に渡すつもりだった比礼にそっくりだった。あの比礼は舞う寸前、守屋が姉さんに渡したはずだけど……)
考えてみても、黄泉醜女に関する情報が乏しくてまだよくわからない。
悩む俺の横で、今も鬼は眠ったままだった。
無理に奪った能力のせいで、強引に心に入り込む必要がある。
俺だけじゃなく、姉さんにもかなりの負荷を強いているはずだ。
さっきまで夢中でむしゃぶりついていた唇にそっと触れる。
「ごめん……俺、本当に最低だ」
姉さんに対してか、鬼に対してか分からない。
ただ謝りたくなった。
やる事は同じでも、前はもっと紳士的に振る舞えていた。
情けないほど自分の欲望に、歯止めが効かなくなっている。
「うぅ……」
短い声と共に、瞼が小刻みに震え始めた。
もうすぐどちらかの目が覚めてしまう。
鬼なら良いけど、姉さんなら絶対に会ってはいけない。
慌てて身を起こし、出口へ向かう。
背中に「春樹……?」と寝ぼけた姉さんの声がぶつかった。
俺は後ろ髪を引かれる思いで、その重い扉をバタンと閉じた。
最終更新:2022年03月23日 12:06