【ループ49回目②】

「遅い」

開口一番、叱られてしまった。
これも毎回、恒例の事だ。

「俺にだって都合があるんだ。すぐに来れないこともあるさ」
「お前の言い訳など、どうでもいい」
「じゃあ、反省するためにこのまま帰るよ」

俺は引き返そうと、踵を返す。
その様子に、鬼は慌てて言う。

「ま、待て。頼んでいた例の物は持ってきたんだろうな」
「姉さんに出した夕飯の残りに入れただけどね。はい、どうぞ」

俺は彼女専用のスープジャーを手渡す。

「わたしの好物、ちゃんと入っているのだろうな」
「もちろん。言いつけ通り、煮込みすぎないようにしたよ」

鬼は機嫌を良くしながら、スープジャーの蓋を開ける。
そして一口啜って、舌舐めずりをした。

(美味しそうに食べるよな)

鬼はスプーンで掬って、御門先輩の目玉をツルンと口の中に入れた。
数回の咀嚼の後、ゴクンと飲み込む。
一回目の俺だったら、この様子を見ていられなかったかもしれない。
でも今は、全く抵抗を感じない。

「美味しい?」
「ああ。目玉を噛んだ時のプチッとした食感が好きなんだ」

鬼はスープジャーの中身をきれいに完食してしまった。
袋に荷物を片付けながら、日常会話のようにあえて気負わず話を切り出す。

「あのさ。ループの起点……それを早める事は可能なのかな」
「ループの起点?」

鬼は首を傾げて尋ねてくる。

「……もしできるんだったら、次回は始まりを少しでいいから早めて欲しいんだ」

起点はいつも夕方の5時からスタートしている。
とは言っても天候があまり良くないから、かなり薄暗いスタートだけど。

(裕也さんが言うように姉さんと御門先輩……黄泉醜女が、言っていた『絆』の正体は、もしかしたら、『時間』のことだったのかもしれない。また俺の、勘違いかもしれないけど……)

「どうした? 何か問題でもあったか?」
「恥ずかしい話なんだけど、あの日は御門先輩との決戦前で緊張してて……起点の時にいつもお腹が痛いんだ。もう少し早めてもらえたら、薬も飲めるしマシかなって思ってさ」

とても緊張していたのは本当だ。
気を紛らすために単行本を読んでいたけど、あの時は全く頭に入ってこなかった。
さすがに腹痛は嘘だけど、起点に戻るといつも喉がカラカラに乾いている。

「そうなのか。ふむ……」

鬼はしばらく考えていた。
そして顔を上げる。

「良いだろう。だが、一時間前が精一杯だ。それ以上の調整は無理だな」

(一時間前……午後4時になるって事か)

「ありがとう、助かるよ」
「お前の願いを汲んでやるのだ。当然、私の願いも聞いてもらわねばならんな」
「貴女の願い……?」
「ああ」

(一体、何だろう)

「何か欲しいものでもあるのか?」
「そうだ。わたしの名……それをお前に決めて欲しい」
「名って……名前だよね」
「今まで名など必要ないと思っていた。以前のわたし達にはそれぞれ名があったからな。だが、それぞれの名を知る者はもう誰も存命していない。それは無いのと同義ではないかと……そう思い始めたのだ」

呼んでくれない名前ほど悲しいものは無い。
鬼の言う事はもっともだ。

「俺なんかで良いの?」
「他に頼める者も、呼んでくれる者も居ないからな」

(名前か)

俺は過去に一回だけ名前をつけた事がある。
それは捨て猫だったミケだ。
三毛猫だったから、ミケ。
こんな単純な名前では怒られてしまいそうだ。

どうせなら女性らしい美しい響きの名前が良い。
ふと、一つのフレーズが思い浮かぶ。

「マナ。マナはどうだろう……」

マナは能力者が使う霊気、霊脈の事だ。
古代ギリシャではエーテルとも呼ばれていた。
世界中に張り巡らされていてその一部を借りながら、能力者は自然現象に置き換えて力を発揮する。
マナが集まって精霊になり、大いなる力を持てば神と呼ばれるようになる。
すべての魂が還る場所、それがマナだ。

「マナ……か」
「いいだろう?」
「響きは悪くない」

鬼もそれなりに気に入ってくれているようだ。

「本来は神聖な目に見えないものを指す言葉だけど、海外のとある場所……南太平洋の島々では霊気を含めた自然そのものをマナと呼んで崇拝しているんだ」
「そうなのか?」
「モアイ像って有名な世界遺産もマナ崇拝と言われているんだよ」
「全く知らんな」
「そっか。とにかく俺達能力者に絶対に必要な物……それがマナなんだ」

気に入ってくれているかどうか確かめるため、鬼をのぞき見る。
表情からはどちらとも読み取れなかった。

「もしかして、気に入らなかった?」
「いいや。悪くない」
「そっか。良かった」
「だが……その名。漢字にすると愛菜にもなるな」

(やっぱり、気付いたか)

「そうだね。確かに、姉さんの名前と一緒だ」
「それは偶然か?」
「いいや、わざとだよ。その体は姉さんのもので……俺は姉さんが一番だから」
「わたしは身代わり、そういう事か?」
「その通り。だって姉さんには会わせてもらえないんだろ?」
「生粋の鬼のわたしが……ただの器の身代わり……そうか」

鬼は独り言のように小さく呟く。

「身体も一緒で名前も一緒。そうすれば、より姉さんに近づくよね」

自分でもなかなか下衆な考えをしていると思う。
でも構わない。
彼女を許すつもりはないから。
すると突然、鬼は身振りをつけながら大袈裟に笑い始める。

「あははははははっ、面白い。では、これからはわたしをマナと呼べ」
「わかったよ、マナ……」

俺はマナの頭を撫でる。
艶やかで柔らかな髪の感触が心地いい。
マナも気持ちよさそうに目を細めた。

最初から、歪んだ関係だ。
昔の俺だったら身代わりの名を思い付いたとしても、決して言わなかっただろう。
それは昔の俺は『正しさ』を何よりも大切にしていたから。
でもこのループの世界に正しさは必要ない。
陳腐で胡散臭くなるだけだ。
正しさは多くの人々が暮らす社会の規範としては成り立つけれど、ここは隔絶された空間。
マナが作り出した世界にそんなものは不要だ。

(俺は必ず帰るんだ。正しさの通用する場所に)

そのためにマナは切り捨てなければいけない。
野生動物のように決して思う様にならない、悠久の淋しさを抱えた人。
しかし、彼女こそが元凶なのだ。
ただ憎んでいた頃の方が、よほど楽だった。
離れ難いと思うほど、俺の中でマナの存在が大きくなっていく。

(もう少しなんだ。俺が完全に堕ちてしまう前にケリをつける)

両手でマナの顔を包み込み、そのまま口を塞いだ。
彼女の中を俺だけで満たしたい。
純粋な気持ちと穢れた欲を込めて、唇と舌を使って執拗に愛撫し続けたのだった。


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最終更新:2025年08月19日 19:17