私は夕焼けに染まる御神木を見上げる。
少しずつ、東の空から藍色が広がっていた。
騒がしかった文化祭も終わり、片付けの真っ最中だろう。
学校の裏手に位置する神社なのに、なぜか学校からの喧騒は聞こえてこない。
(風向きが逆だから、声が聞こえないのかも)
冷たくなってきた頬を撫でる風を感じ、私は深呼吸する。
この街を守る大木も、隆には何か特別な気配を放っているのかな、と気になったから。
その荘厳な姿に吸い寄せられるように、私は無意識に一歩、また一歩と幹に近づいていく。
間近で見ると、やっぱりその大きさに圧倒される。
首が痛くなるほど見上げても、頂上を確認できない。
「そんなに近づいたら鳥の落とし物くらっちまうぞ?」
背後から、隆の声が飛んでくる。
向き直り、首をかしげる。
「おとしもの?」
「奴ら、上にうじゃうじゃ居るからな」
(奴らって……ムクドリだよね……その落とし物……)
「鳥のフン…!」
そこでようやく隆の言葉の意味を理解する。
御神木から反射的に離れ、距離を置く。
「冗談だ。木の幹の側にいれば大丈夫だろう」
「でも!」
「お前には割と好意的だから、そんな意地悪しないと思うぜ」
「そうなの? 私、この子たちのお家にお邪魔してるのに?」
「上の奴らも……おにぎりの具が分かるのかもな」
おにぎりの具。
さっき隆が教えてくれた人の気配や性質のことだろう。
「もうっ、からかわないでよね」
あきれつつ、頬を膨らませてみせる。
(私も隆みたいに匂いを嗅げば、この木とか、上の鳥たちの内面とか性質みたいなの分かるのかな?)
そっと幹に顔を近づけ、深く息を吸い込む。
「んー……なんか、土っぽい匂い……あと、もっと奥の方から、甘いような、懐かしいような……」
明確ではないけれど、不思議な感覚がした。
再度向き直り、隆に私の検証結果を伝える。
「例えるなら……カブトムシの匂いかな」
真面目に答えたのに、隆は呆れたように笑った。
「カブトムシって……お前、どんな感性してるんだよ」
呆れつつも、隆の顔には優しい笑みが浮かんでいる。
(だって……)
「隆が子供の頃に捕まえてきた、大っきなカブトムシと同じだったからだよ?」
「お前……あのカブトムシの匂いを嗅いだのか?」
「だって、珍しいし気になるじゃない?」
ほのかに甘い香りだったのは、虫籠の中にある隆が食べ残したスイカの匂いだったのかもしれないけど。
そんな事を考えていると、隆は石畳から腰を上げていた。
慎重に立ち上がると、深呼吸して最初の一歩踏み出す。
ほとんど動かない方の足を引きずりながら、ゆっくり私に近づいてくる。
「ちょっと、待って。今、松葉杖持ってくるから」
慌てて隆が座っていた石畳に向かおうとする。
「動くな! 必要ないから」
その言い方が有無を言わせない強い響きだった。
私はその場から動けなくなる。
「でも、歩きづらいんじゃ」
「これくらいの距離なら、なんてことない」
片足だけじゃなく、上半身にもしびれがある。
奇跡的にここまで回復できたのは、隆の頑張りがあったから。
一命は取り留めたものの寝たきりだって、お医者さんに言われてきた。
介助なしに生活できるようになったから、退院の許可が下りたんだろうから。
(隆……)
私はその場に留まって、来るのをじっと待つ。
手伝ってしまいたいけど、彼はそれを絶対に許さない。
代わりにスカートのプリーツをギュッと握りしめた。
緩く蛇行した轍のように。
隆の通った跡には、引き摺った足の軌跡が残っていった。
「ふう、よっこいしょ」
ため息とも、息切れともとれる深い息を一つ吐いた。
そして、時間をかけて、ようやく私の側に立つ。
「お疲れさま」
「少しは良くなったところ見せようと思ったのに、ザマァないな」
皮肉交じりの笑みをよこしてくる。
それを否定するように、私は首を横に振った。
「ううん。ここまで自力で来れるようになったんだから、十分、スゴイよ」
「ははっ、そうかよ」
静かで乾いた笑いを、隆は漏らした。
「ほら、せっかく歩いてきたんだから。嗅いでみる?」
私は促すように、御神木を指差した。
隆はため息をつきながらも、御神木を見上げた。
「ホントにカブトムシなのか?」
「間違いないんだって。ほらっ」
そして、ゆっくりと、その大きな掌を幹に触れさせた――。
瞬間。
隆の顔が苦痛に歪んだ。
「っ……!」
突然、息を殺しながら呻き、片手で額を抑える。
その身体が、まるで内部から湧き上がる何かに耐えるかのように、微かに震え始めた。
「隆、どうしたの!? 大丈夫!?」
私は慌てて隆の腕を掴んだ。
その様子は、普段の隆からは想像もできないほど異様に映る。
瞳の奥には、見たことのない激しい光が宿っているように見えた。
最終更新:2025年06月19日 09:12