勾玉はまだ光を失わず、迷子の私の記憶を漆黒のベールに投影し続けていた──
それは隆からのメールだった。
『昨日からお前……、俺のこと避けてないか? 放課後ゆっくり話をしたいんだ。ちゃんと水野との誤解も解いておきたいし、音楽室まで来れるか?』
音楽室……。
もう気にしないと決めていたのに、偶然見てしまった光景を思い出して心臓が跳ねた。
隆と水野先生の濃厚なキスシーン。
私と付き合う以前の出来事なのに、今でもこんなにも心を乱されてしまう。
もちろん、避けているだけでは恋人になった隆をいつまでも信じることはできない。
音楽室へ行かなくては……。
少し早いけれど、音楽室へ行こう。私は鞄に荷物を入れると、足を引きずりながら音楽室へ向かった。
怪我をした足を庇いながら壁を這うようにして、ようやく音楽室の前に辿り着くことができた。
深呼吸をして、乱れた息を整える。
そう思いながら音楽室の扉に手を掛けた瞬間、二つの人影に気がついた。
隆と水野先生?ほとんど後ろを向いていて、隆の顔はよく見えないが、笑い声が聞こえる。
呆然と立ち尽くす私に水野先生が気づいた。
扉越しの私と目があったかと思うと、何かを隆に言い、ゆっくりと顔を近づけていく。
隆もそれを制するそぶりは見せない。
偶然見てしまった私は踵を返し、足を引きずりながら音楽室を離れた。
怒り、悲しみ、絶望が胸の奥でぐるぐると渦巻く。
疑問だけが、頭の中で何度も繰り返される。
頬を涙が伝うが、拭おうとすら思わなかった。
早くここから離れたい、そう思うのに足が思うように動かない。
数歩歩いたところで思わずよろめき、転びそうになった私の腕を誰かが掴んで支えてくれた。
慌てて振り返ると、そこにいたのは一郎くんだった。
「一郎……くん……」
「泣いているのか。可哀想に……」
ポケットからハンカチを取り出し、一郎くんは私に差し出してくれた。
様々な感情が渦巻いて、ただ涙がこぼれるばかりだ。隆のことを信じていたかったのに、決定的な光景を見てしまった。
どうしてこうなってしまったのだろう?何もかもがわからない……。
信じたくない、認めたくない。
だけど……もしこれが本当の出来事なら、もう隆とは笑い合えない。
付き合い続けることなんて……絶対にできない。
差し出されたハンカチを握り締め、目を覆う。
石を飲み込んでしまったように、喉の奥が鈍く痛み続けている。
嗚咽でうまく息ができない。
まぶたが熱く火照って、重い。
しばらく一郎くんが慰めてくれたけど、隆の様子が気になって仕方なかった。
「っ…ごめん、ちょっとだけ…」
しゃっくりをあげながら、やんわりと一郎くんから体を離した。
何を言いたいのかはっきりとは分からなかった。
けれど、言わなければ、という思いが湧き上がる。
私は音楽室へ戻り、扉を開けた。
「……!あい、なっ」
隆の驚いたような顔。
「あら、大堂さん」
そして水野先生の妖艶な微笑み。
「何を…ッ…驚いて、るの?隆、私と約束……してたでしょ?」
うまく言葉が出てこない。
「……そう、だな」
隆の声が低くなる。
何が言いたいのか分からないまま、言葉が滑り出した。
私は嗚咽をこらえる。
堪えて喋らないと、隆に伝わらないから。
「隆は何がしたいの?」
水野先生といるところを私に見せつけて、どうしようっていうの?
「それは……」
隆は言いよどんで、うつむいてしまう。
「水野先生と仲良くして、なにやっているのよ!!」
もう嫌だ。何もかも。
「大堂さん。湯野宮くんと私が男女の関係と誤解しているようだけど……それは勘違いよ」
いきなり口を開いたのは水野先生だった。
水野先生はすべてを知っているような口調で話を続けた。
「湯野宮くんと私が口付けしている所を偶然あなたが見かけてしまったと、湯野宮くんから聞いたわ。でも、それは誤解なの。少しだけ冷静になって、私たちの話を聞いてちょうだい」
こんな状況でも、水野先生は大人の笑みを絶やさない。
「そ、そうなんだ!あれは……かこ……」
隆はそう言って、水野先生を見る。
「湯野宮くんが言いたいのは過呼吸。過呼吸状態になった私を口を塞いで救ってくれたのよ」
過呼吸……って、何?でも、言い訳なんてもう聞きたくない。
言い訳なんてどうでも良かった。
「そう、でも、もういい!!」
私は叫んでいた。
「隆、私言ったわよね?もし水野先生とまた何かあったら、隆のこと信じられないって!!」
涙が止まらない。
「前のことは許してたのに!なのに、今のはなに!?」
「……そ、れは」
「もう、信じない!隆のことなんて信じないっ。さようなら!」
「愛菜!」
隆が叫んで、私に近づいてくる。
私は隆を睨んだまま、後ろに下がった──
発光する勾玉が消失して、私たちは深淵の闇に戻ってくる。
覗いてはいけないもの、見てはいけないものを見た気がする。
「うわぁ……修羅場だったね。それにしても……迷子の私、可哀想……」
私の中の胸の痛み。
それはこの失恋の痛みだと、ようやく分かる。
「マジで、最低野郎だな! クズだ、クズ!」
あちらの世界の住人だったもう一人の隆に、こちらの隆が猛烈に怒っていた。
「水野先生と言い訳してたよね。そこが一番嫌だったな……私も最低だと思った」
どんな理由があろうと、恋人が居るのに他の人とキスしてしまうなんて、完全な裏切り行為だ。
怒りが収まってたのか、コホンと咳払いして隆が口を開く。
「ところで……途中で出てきた一郎って奴。あの文化祭にいた男と瓜二つだったな」
この勾玉が見せた物語の登場人物の一人、一郎くんが気になったようだ。
「隆も文化祭で一緒にご飯食べたよね。一郎くんは同じ放送部の委員長で、とってもしっかりしてるんだ。いつも私を気にかけてくれる素敵な人だよ。きっと迷子の私も、あちらの世界で同じ放送委員だったのかもね」
「俺より一郎って奴の方が、よっぽどマトモだったぞ!」
違う世界の自分が、相当許せないみたいだ。
「一郎くんはあまり変化ないかもね。普段もあんな感じだし。そうそう、昨日は文化祭のリハーサルだったんだけど一郎くんと誤放送しちゃったんだ、恥ずかしかったなぁ」
昨日の事を思い出すだけで、穴があったら入りたくなる。
深いため息が出そうになった。
「奴と仲……良いんだな」
「仲良しっていうより尊敬できるかな。あの一郎くんが誤放送したって学校で話題になってたらしいし」
劇の前に香織ちゃんが笑いながら教えてくれた。
いつもやらかす私より、一郎くんの方がインパクト強かったって慰めてくれたっけ。
「そうかよ……楽しそうで良かったな」
まだ怒ってるのか、拗ねたように隆はそっぽを向いてしまった。
最終更新:2025年07月12日 20:31