「あなたは……愛菜は……とても素敵な方なのですね」
壱与が私を褒めてくれた。
それは自分が自分を認めた証で。
くすぐったいような、自惚れのような。
ほわほわと不思議な気持ちになるのだった。
(そうだった。これを……)
私は比礼を半分に折り、畳む。
必要以上に大きいから、すごく手を広げなくちゃいけなくて大変だ。
何度かの折り返しでようやく渡せる大きさになって、壱与へと差し出した。
薄桃色の生地は、私の想いを吸い込んだかのように、微かに輝いている。
「壱与、これ……忘れ物だよ。もう失くさないでね」
やっと持ち主に返すことが出来た。
プレゼントした守屋さんもホッとしてるだろう。
壱与は、私の手から比礼を慎重に受け取った。
その指先が比礼に触れた瞬間、比礼の輝きは一層増していく。
まるで、本来の場所へと還っていったかのようだった。
「これで……あるべき場所に戻ったな」
比礼を纏ったのを確認して隆が静かに呟く。
その琥珀色の瞳は、壱与の存在を深く見つめていた。そして、一つ、大きく息を吸い込んだ。
まるで意を決するようにも、見えた。
「なぁ、壱与。確認だが、お前はもう元の世界にすら戻れないんだよな?」
隆の声は、いつもよりずっと真剣だった。
彼が次に何を言おうとしているのか、私には漠然とだが予感できた。
壱与は、静かに首を横に振る。
その表情には、さみしさが滲んでいるような気がした。
「寄る辺ない私は、元の秩序の輪の中にはもう帰れません。そして、再生の舞、胡蝶の夢の代償として、巫女としての力も、何もかも失ってしまいました」
彼女の言葉は、まるで響き渡る鐘の音のように、重く、切ない響きがあった。
もう、彼女にできることは何もない。
それは、どれほどの絶望なのだろうか。
隆は、壱与の言葉に小さく頷いた。
そして、ゆっくりと私に視線を移す。
その瞳には、ある一つの可能性を見出した光が宿っていた。
「そうか……。なら、壱与。もしかしたらだが、派生したお前……つまり愛菜なら、巫女の資格があるかもしれないんじゃないか?」
隆の言葉に、私は驚きに目を見開いた。
「え……私が、巫女の資格?」
予想もしなかった言葉だった。
巫女……それは、夢の中で壱与が纏っていた神聖な力。
私に、そんな力が? 私の心は戸惑いと、ほんの少しの期待がないまぜになって揺れ動いた。
壱与は、その言葉に僅かに目を伏せていたが、やがて顔を上げ私をまっすぐ見つめた。
その瞳に宿る光は、まるで遥か昔から続く叡智そのものだった。
「はい。資格は揃っています。世界に変革をもたらす巫女としての資格が、あなたにはある」
壱与の言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
何が?
私に何があるというのだろう?
壱与は私を覗き込むように、穏やかに続けた。
「一つ目の条件。まず神の力を取り込むことです」
「神の力……」
「私のいた世界では神器、神宝が覚醒の要として用いられてきました」
そうだった。
神器と神宝が対立していた。
それこそが争いの種だった。
「でもここにはそんなすごい物、この比礼しかないよ」
思わず口にすると、隆が「おい」と呆れたように声を出す。
「何。今、壱与と大切な話の途中だから」
私がそう言い返すと呆れた顔のまま、私に向かって指をさした。
「ここに居るだろ」
「なんのこと?」
隆の言葉の意味が分からず、首を傾げる。
すると、隆は自分を指さして、さらに呆れた声で言った。
「神様、俺がそうだから。神器や神宝は人間や鬼が神の依り代として使うだけ。あくまでただの代替品だ」
「そっか。光輝だから隆も資格があるんだ」
光輝の神力を受け継ぎ、神の依り代として存在していること。
隆自身がその担い手になれるらしい。
その事実に改めて納得し、腑に落ちた。
そんな私たちのやり取りを、壱与は微笑ましそうに見つめていた。
「そしてもう一つの条件。それは誰かを想う、決して折れない強い気持ち」
壱与はそう言って、傍らに立つ隆をちらりと見た。
その言葉に、私の頬がカァっと熱くなった。
誰かを想う強い気持ち。
それは、隆への。
そして、共に歩んだ記憶にも宿る。
隆もまた壱与の言葉に少し照れたように、視線をそらした。
「照れるな。俺にも伝染るから……」
その頬も心なしか赤みを帯びているように見える。
普段はちょっとの事では動じないのに。
こういう時は驚くほど素直な反応だから、思わず微笑んでしまう。
(でも。私に……巫女の力が……)
まだ信じられない気持ちと、果たして自分にそんな大役が務まるのかという不安が渦巻く。
二人を見ると壱与の真っ直ぐな瞳に冗談なんて無くて。
隣に立つ隆の存在も、私の背中をそっと押した。
「私にできるなら……やってみるよ」
私は、深く息を吸い込み、決意を固めた。
この世界を救うために。
そして、壱与の迷いを終わらせるために。
私の言葉に、壱与は微かな安堵の表情が浮かんだ。
彼女は、ゆっくりと手を差し伸べ、私の胸元にそっと触れた。
その指先から、清らかな光が流れ込み、私の胸に新たな勾玉がゆっくりと形成されていく。
それは、輝く、美しい勾玉だった。
私が以前、手のひらに掬おうとして掴めなかった、あの儚い光とは違う、確かな存在感を放っている。
壱与は、その勾玉が完全に形を成したのを確認すると、私の瞳をまっすぐ見つめ、静かに問いかけた。
「別の世界、違う貴女の記憶の潮流が襲い、苦痛を伴います。覚悟は、ありますか?」
その言葉は、単なる問いかけではなく、私の心の奥底を試すような、重い響きがあった。
私は、迷いなく深く頷いた。
「はい」
その短い返事に、私の揺るぎない覚悟が込められていた。
「あと、隆……」
壱与は隆を呼び捨てにして尋ねた。
その声は懐かしさを含んでいる。
「さっきの戦いで消耗しすぎたから。もしかしたら……隆も失ってしまうかもしれないよ?」
壱与の言葉に一瞬だけ眉をひそめた。
けど、すぐにいつもの自信に満ちた表情に戻った。
「構うもんか。そんなのに頼らなくても、俺はやるべきことをやるだけだ」
「そっか。そう言うと思ってたけどね」
壱与は楽しそうに笑い、隆は小さく肩をすくめる。
そのやり取りは、まるで長年の友人のようだった。
「お前の幼馴染の俺もこんな感じだったのか?」
隆が苦笑いしながら呟く。
「まあね。もっと迂闊で子供っぽいけど」
壱与の言葉に隆は少し考える素振りを見せ、やがて自分で納得したように言った。
「そうだった。クズ野郎だった」
「あははっ、それでもいっぱい助けてくれたよ?」
壱与は本当に楽しそうに笑っていた。
その笑顔は、これまでの悲しみから解放されたかのような、清々しさに満ちていた。
「そうか。まあ、俺様なんだから当然か?」
隆のどこか得意げな言葉に、壱与はさらに笑みを深める。
「そうだね。隆様だもんね」
壱与と隆の会話を、私はただ黙って聞いていた。
この子にとっても、隆は大切な幼馴染だったんだ。
今の会話が、この子の「存在の証明」になっていけばいい。
彼女が失った記憶の一部が、こうして隆との会話の中で取り戻されている。
そうなれば、この子も救われる。
「隆。愛菜の手を取ってあげて」
決して離れないよう、お互いがしっかりと手を繋ぐ。
指と指を絡めてお互いを確認し合う。
「それで俺の神力をコイツに送ればいいんだよな?」
隆の言葉に壱与が「うん」と、頷く。
「さあ、愛菜。では、これを受け取って下さい」
私の覚悟を汲み取った壱与は、優しい微笑みを浮かべた。
そして、その透き通るような指先で、私の胸元にある輝く勾玉に、そっと触れた。
それが私の胸に埋め込まれていく。
その瞬間、激しい光が私の全身を包み込んだ。
突如として、全身に耐えがたいほどの激しい苦痛が襲いかかる。
まるで魂が引き裂かれるかのような感覚。
頭の奥から、無数の情報が洪水のように流れ込み、意識が急速に遠のいていく。
「ぁ……っ、う……!」
私の口から、苦悶の声が漏れた。
視界が白く染まり、隆の心配そうな顔も、壱与の慈しむような表情も、光の中に霞んでいく。
(これが……記憶の、潮流……)
途切れかける意識の中で、私は最後にそう思った。
見たこともない映像、聞いたこともない音、匂い、味、肌感になって一度に私を襲う。
それらが散り散りになって、束になって私を貫く。
深い闇へと引きずり込まれるような痛みの中、私の意識は完全に手放した。
最終更新:2025年06月19日 17:31