私は車の後部座席に座って、夜の流れる景色をぼんやりと眺めていた。
街の喧騒は遠ざかり、煌々と輝くネオンは背後に置き去りにされる。
代わりに窓の外には静かな住宅地が過ぎていき、やがて街灯の数も減っていく。
黒く沈んだ道と、点在する民家の窓明かりだけが、夜の闇に瞬いていた。

まるで光の世界から、ゆっくりと何か深い秘密へと沈んでいくようだった。
私の乗っている軽自動車は、街外れの海岸の方へと向かっているらしい。

「座席、狭くてごめんなさいね」

運転席の女性の声が、ふいに車内にやわらかく響く。
バックミラー越しに、声の主と目が合った。
落ち着いた瞳の奥に、どこか懐かしさのようなものを感じる。
お義母さんと同じくらいの年齢だろうか。
助手席には、私より少し年下の女の子。
彼女が「お母さん」と呼んでいたから、きっと親子なのだろう。

「いいえ、乗せて頂けるだけでありがたいです」

私は慌てて首を振る。
申し訳なさと、どこか所在なさを隠すように。

「おねえさんの制服って、あの御神木の近くの高校だよね? 今、中2なんだけど、私もあそこに行きたいんだよね」

助手席の子が、前の座席の隙間から覗き込むように顔を向けてくる。
その瞳には、星のように無邪気な好奇心が瞬いていた。さっきより暗くなった車内の灯りが、彼女の輪郭をやわらかく浮かび上がらせている。

「良い学校だから、入れるといいね。校則も緩いし、先生も優しいし、生徒も割と常識人が多いかな。ただ、勉強は難しいよ」

偏差値の高い進学校。
私はただ家から近いという理由で選んだが、今では遠くから通う子たちの熱意に気後れすることもある。
自分が、その中では一番下の存在かもしれないとは──さすがに言えない。

「ところで、おねえさんも能力者なんだよね。周防先生のとこにお世話になるんだから」

「……周防、先生……?」

脳裏に浮かんだのは、ショッピングモールや学校の地下道で会った姿で。
「周防さん」と「先生」という言葉がうまく結びつかず、私は思わず首を傾げてしまった。

「だって海辺の診療所は看板も掛かってないし、ほぼ能力者専門だもん。あんな場所まで、普通の人が通うはずないでしょ?」

「診療所……?」

波の音が近づいてきた気がした。
車がゆるやかに海辺へと近づいているのがわかる。
窓の外は真っ暗で、灯りのない一本道がずっと先まで続いていた。

「ああ、おねえさん知らないんだね。もしかして、能力が最近覚醒した人?」

「ええっと……」

問いが矢継ぎ早に飛んできて、言葉が出てこない。
自分の理解がこの車の中の会話の流れに追いついていない。

「渚、そんな急に言ったら愛菜さんも困るでしょ? まだ周防先生がお医者様ってことも知らないかもしれないじゃない」

(この子、渚っていう名前なんだ。それにしても、周防さんって……)

「私、まだ周防さんと会ったばかりなんです。彼ってお医者さんなんですね。でも、年齢的にちょっと……若すぎませんか?」

診療所の医師なら、当然医師免許がいる。
けれど、ショピングモールで24歳だと教えてもらった。
最短でも免許取得に8年かかると聞いたことがある。
年齢とキャリアが、どうしても結びつかない。
問いかける私に、運転席からの落ち着いた声。

「先生はアメリカに留学していたの。私も施設出身だから、彼のことはよく知ってるわ。周防先生は、21歳で医師になったはずよ」

なるほど、と私は思った。
海沿いの道を進むにつれて、波の音が車内にも聞こえるようになった。
穏やかながらも、どこか胸の奥を揺らすようなその音は、遠い記憶を呼び起こす波のようにも感じられた。

「……あの、言いにくいかもしれませんが、施設での逃亡計画の失敗って……知ってます?」

ふと、聞いてしまった。
波の音が静まったかのように、車の中の空気がぴたりと凍りついた。

誰もがその言葉を待っていなかった。いや──避けていたのだろう。

「うち、お父さん居ないんだけどね。実は、その逃亡計画で私やお母さんを庇って死んじゃったんだ。まだ、すごい小さかったから全然覚えてないけど」

渚さんが、あえて明るい声で話す。
その口調の中に、私への気遣いが滲んでいた。
彼女の声があたたかいのは、過去を乗り越えてきた人にしか持てない強さかもしれない。

そして、運転していた母親が補足するように口を開く。

「約10年前……コードナンバー673の暴走で、施設そのものに危機感が広がっていたのよ。あの惨劇と同じように無差別に殺されるんじゃって、皆ビクビクしてた。そんな中、次期高村の首領候補の一人だった周防先生が能力者の皆から持ち上げられて。まだ彼は今の渚と同じ歳だったわね」

(コードナンバー673……)

「コードナンバー673って……今は御門冬馬と名乗ってますよね」

「ええ。私は隔離施設の方には関わっていなかったから、彼の顔は見たことないけれど……確か、今は周防先生が保護者代わりだと聞いているわ」

木々の枝が揺れ、風が吹いているのが分かる。
波と風が混ざり合う音が、車の外で交差する。
そのざわめきが、私の中の記憶と重なる。

──御門冬馬先輩の暴走。
──こよみさんの死。
──美波さんが話していた「逃亡計画」。

全てが、繋がった。
その日、あの施設で確かに何かが壊れ、そして誰かが取り残された。

「あなたの言うように、逃亡計画は実行されたわ。でも、何者かの告発で筒抜けだった。だから一網打尽にされてしまったの。渚の父親も、周防先生側の首謀者の一人だったのよね」

「……そうなんですか。それは、とても辛い経験でしたね」

(でも、その告発者が美波さんだったなんて──)

言えるわけがなかった。
私は俯く。
胸の奥が重く、喉の奥が詰まったようだった。

そのとき、ハンドルを握る女性の声が、再びそっと私の頬をすくい上げた。

「顔を上げて下さい。私たちは、大丈夫ですから。こうやって、あなたのような若い同胞のお手伝いも、案外うれしいものなんですから」

「そうだよ。私には能力にはほとんど無いけど、おねえさんみたいな同じくらいの人ってあんまり居ないから、すっごくうれしいんだ」

渚さんの無邪気な明るさが、今は何より救われる気がする。

「あの、あなたのこと、渚さんって呼んでもいい? 私も能力者の同性のお友達は全然居なくて」

お友達になりたい。
素直な気持ちを言葉にする。

「もちろん。じゃあ私は愛菜さんでいいかな?」

「ありがとう。よろしくね、渚さん」

気がつけば、車は海沿いの一本道を抜け、小さな洋風の建物の前にゆっくりと停まっていた。
潮の匂いが、窓の隙間からふわりと入ってくる。
あの日失われたものたちの気配が、波に溶けるように漂っているようにも感じた。




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最終更新:2025年07月21日 16:38