周防さんの指示で、私をここまで送り届けてくれた親子にお礼を言った。
彼女たちは、小さく手を振ると、濃い海風を巻き込んでUターンしていく。
車の赤いテールランプだけが、闇の中でかすかに光を引きながら、やがて見えなくなった。
取り残されたような静けさの中、私は足元の荷物を見下ろす。
いくつかのボストンバッグ。やけに大きくて、やけに重くて。
自分の心に沈んだ色々なものが、そのまま荷物になってるみたいだ。
このあたりには、人の気配が一切ない。
波音だけが、まるで遠い過去の声のように聞こえていた。
海の方を見れば、数百メートル先で地面が抉れたように落ちている。
黒く沈んだその先に、夜特有の漆黒の海があった。
月が薄く照らし出した白波が、不規則にゆれている。
見ようとすればするほど、その奥には何か深いものが潜んでいそうで──私は無意識に視線を逸らした。
そのとき。
小さな洋館のドアが開く音がした。
室内の明かりが、闇の中でやけに眩しく感じられる。
逆光で人影の顔までは見えないけれど──
のんびりとした歩き方、少し長めの足、白衣の揺れる形。
「愛菜ちゃん、いらっしゃい」
やっぱり周防さんだった。
その声を聞いた瞬間、フッと肩の力が抜けた。
私は思っていた以上に緊張していたらしい。
光に迎えられたような安心感が胸に広がっていく。
歩いて来た周防さんが、いつも通りの口調で声を掛けてくれる。
闇夜に映える白衣を身にまとう姿は、やっぱりお医者さんなんだと改めて気付かされてしまう。
「しばらくお世話になります。よろしくお願いします」
私はペコッと頭を下げて挨拶する。
「そんな、かしこまらなくていい。わが家だと思ってくつろいでもらえばいいから」
そう言って、私のボストンバッグ数個をヒョイと持ってくれる。
「重いですよね。私のですし一緒に運びます」
慌てて、一つの大きなカバンを持とうとする。
「いいさ、男の方が力あるんだし。女子はこういう時こそ堂々と男に荷物持ちさせなきゃ」
軽い口調でそう言うと、洋館の方に歩き出してしまう。
「あっ、待って下さい」
私は勉強道具の入った学生鞄だけを持って、慌てて追いかけた。
中に入ると、簡単な受付がある。
その奥には大きな薬棚。
それに冷蔵庫も。
前に薬品の一部は要冷蔵のものもあると聞いたことがある。
こんな人里離れたところに処方薬局なんてないから、全部ここで揃えてしまうのだろう。
「わぁ、本当に病院なんですね。周防さんとお医者さんが結び付かなかったけど、すごい、本物です」
「一応、本物だぞ。ただし、医師免許は別人の名前で登録されてるけどな?」
軽口で答えてくれたけど、戸籍上死亡なんて壮絶な過去だけに素直に笑えない。
私は困って目をそらすことしかできなかった。
改めて、ぐるっと診療所を見渡す。
家の近くには、たくさんの病院があるけど、どこも現代的で洗練されている。
昔ながらの小さな診療所をあまり見たことはないけど、きっとこんな感じなんだろうと想像できる。
木の温かな温もりと、微かな消毒の匂い。
待合室の黄緑色の長椅子も、どこか懐かしい感じがした。
「この奥の扉が診察室だ。見てみるかい?」
「はい」
扉を開けて入ると、丸椅子と背もたれのある椅子とパソコンの置かれた机。
診察室は意外にも、現代的な印象を受ける。
こぢんまりとしているからこそ、電子カルテを使って効率的にしているのかもしれないな、と思う。
「更にこの奥が生活スペース。俺が普段生活する場所だな」
更に扉を開けると、15畳ほどのリビングダイニングだった。
こちらも木の温もりが感じられる、どこか素朴な造りに心が安らぐ。
「愛菜ちゃんは一番奥の空いてる部屋を使ってもらう。俺の部屋はこっちで、バスとトイレはこっちだな」
簡単に間取りの説明を受ける。
周防さんの部屋とは反対側、お風呂とトイレに近い部屋が私の部屋になるようだ。
「しばらくの間、よろしくな、愛菜ちゃん」
周防さんに握手を求められる。
彼の能力は十種の神宝の辺津鏡。
相手の心をのぞくことのできる読心の特殊な力。
「よろしくお願いします」
その大きな手を握り返す。
今、この瞬間に私の心を読まれているのだろうか、と少し心配になる。
「なるほど、な。昨日、冬馬の裸を偶然に見ちまったんだな。可哀想に。あいつ……余計なテレパスは繋ぐなって忠告したのに、しょうがない奴だよ」
周防さんは呆れたように呟く。
どうやら私の心を読んでの発言らしい。
(裸って……昨日のシャワーの事だよね。まだ何も言ってないのに。本当に心の中が見えるんだ)
半信半疑だったのに、いざその場面を目撃すると恥ずかしいような、感心してしまうような。
「テレパシーの事が気になって。夜だったのにいきなりお邪魔してしまったので、先輩は悪くないです」
冬馬先輩は被害者だ。
危機的な状態でもないのに、興味本位で使ってしまった私に非がある。
「いいや、駄目だ。春樹の件といい……もう、あいつには任せられない」
そのとき、周防さんが私の額にスッと指を当てた。
ぬるい体温と共に、彼の指先がわずかに印を切ったのが分かる。
「……なにを……?」
「冬馬とのテレパスを遮断した。契約の証はそのままだから、愛菜ちゃんに実害はないから大丈夫だよ」
さらりとした口調だった。
けれど、その響きは妙に冷たく、まるで「壊れた回線」は繋がせない、事務的な鋭さがあった。
その瞬間──何かが胸の奥から抜けていった。
音もなく、色もなく、でも確かにそこにあった“誰かの気配”が。
冬馬先輩の温度。言葉。その全てが──まるで、初めから無かったかのように、すうっと。
(あ……)
私の心の中に、ポッカリと空白ができていた。
それは「失った」ではなく、「えぐられた」に近かった。
耳鳴りのような静けさが辺りに広がっていく。
外では、波の音が静かに続いていたけれど、それさえも遠く感じた。
(冬馬先輩、聞こえるなら返事して……)
呼びかけても、もう何も返ってこない。
ほんの少し前まで、あたりまえのようにあった気配。
今となっては、それがどれだけ心強かったかにようやく気づかされる。
「……でも、今は一人で考える時間も大切だからね」
周防さんはそう言って笑った。
その笑顔には、気遣いのようでいて、もっと強制力のある──そんな微妙な“間”があった。
けれど私はそれを問いただす余裕がなかった。
ただ、心の奥で小さな違和感が胸を占める。
(冬馬先輩とは、もうお話できなくなったんだ……)
周防さんの言う通り、手の契約の証はそのままなのに、確実な喪失感だけはいつまでも心の奥底に残っていたのだった。
最終更新:2025年07月16日 16:24