今日は疲れただろう、と周防さんはあまり私に干渉することなく、自室に戻っていった。
それが、無性にありがたかった。
優しさって、時には“黙ってくれること”なんだと改めて気づく。

好きに使っていいという話だったから、寝る前にシャワーを借りて、タオルの香りに少しだけ安心して。
それから、自室に戻って、簡単な荷解きを始める。

部屋の中は、シングルベッドと机、椅子。
空っぽの本棚があるだけの、簡素な空間だった。
物音ひとつしない、静けさが返って落ち着かない。

畳の上に腰を下ろし、荷物のポケットからガラケーを取り出して、パカリと開く。
けれど、アンテナは一本も立っていない。
液晶の画面に“圏外”の文字が、乾いた警告のように浮かぶ。

──お義母さんや、隆や香織ちゃんに。
「無事に着いたよ」って、一言だけでも伝えたかったのに。

窓の外から吹いてくる海風の音が、やけに大きく感じた。
たった数時間前まで、家にいたはずなのに。
けれど、この電波の届かない空間は、どこか現実から切り離されたような感覚を私に突きつけてくる。

改めて、私は遠くまで来たんだ、と実感した。

部屋の隅に目を向けると、真新しいピンクのカーテンが揺れている。
どう見ても、この部屋の雰囲気には似合っていない色。
きっと、私のために用意されたものだ。
もしかしたら、周防さんが一人で、これを選んで買ってきたのかもしれない──
そう思った瞬間、思わず小さく笑ってしまう。

どんな顔でこの色を選んだんだろう。
恥ずかしそうに? 愛想よく? 想像がつかないから、逆に面白かった。



コンコン。

「ドア閉めたままでいいから。愛菜ちゃん、もう休むのかな?」

くぐもった声が、ドアの向こうから聞こえる。
少し低くて、けれど不思議と柔らかい声。

「はい。色々あって、疲れてしまって……」

春樹が家を出ていったことが分かって、美波さんから色々な説明を受けて。
渚さん親子に車でここまで連れてきてもらった。
たった数時間の出来事なのに、まるで何日も経ったように、現実味がない。

「だよな。慣れない場所だからこそ、休息は大切だ。ゆっくり休んでくれ」

「ありがとうございます。おやすみなさい、周防さん」

「おやすみ、愛菜ちゃん」

ドア越しのやりとりは、それだけ。
必要以上に関わってこない優しさが、今の私にはとても心地良かった。

電気を消して、布団に潜り込む。
やわらかい、けれど少し冷たい布団に体を沈めると、重くなったまぶたが自然と落ちた。
思った以上に、体も心も、疲れていたのだと思う。

睡魔は、まるで水のように静かに、でも確実に私を飲み込んでいった。






「……本当にこれで、春樹の奴に能力が戻るのか?」

うっすらとした意識の向こう側。
周防さんの声が聞こえる。
瞼を開くと──近い。
思った以上に近い。
顔を覗き込まれていて、思わず息を呑んだ。

ここは……診察室?
さっき見たはずの部屋。
けれど、照明はほとんど落ちていて、闇に近い灰色が漂っている。

「春樹の力を奪ったのは、無自覚だが愛菜本人だからな。この血があれば覚醒できるはずだ」

私の腕にはチューブが刺さっていた。
そこから流れていく、赤黒い液体。
じわじわと、冷たさの代わりに“力”が抜けていくような気怠い感覚があった。

「春樹の力を奪う? それはいつだ? 春樹は生まれた時から“能力なし”だったはずだが」

「1500年前の話だ」

知らない若い女の人の声。
よく通る、けれどどこか濁ったような響き。
その口調には、確信が宿っていた。

「……そりゃまた、壮大な話だな」

周防さんの声は、どこか乾いていた。
感嘆とも呆れともつかないトーン。
そして何よりおかしいのは、その部屋に“周防さん以外の誰も居ない”ということだった。

──なのに、もう一人の声は、確かにそこにある。

「血液型の検査の結果だが、愛菜ちゃんはA型。春樹も俺もA型。過去の記述こそないが、鬼の血がA型由来なのか?」

「血統が同じなら、血が似るのは当然だろう」

「まあな。理屈は合ってる」

二人の会話は、呼吸を合わせるように自然に続いていく。
まるで、気の合う者同士のように。

「俺としては、春樹が覚醒してくれた方が都合がいいんだ」

「なぜ? お前は主流派に対抗しているのだろう?」

「春樹が踊れば主流派も踊る。俺はあくまで外野。火を灯す役目じゃない──」

周防さんのいう事は、正直よくわからない。
理解はできないけど、採血装置の中の血液パックを見つめる瞳の奥が少しだけ揺らいだ気がした。

「面白いことを言うな。……お前は、一体誰の味方だ?」

その瞬間、女の声のトーンが変わった。
氷のように冷たく、問い詰めるような声音に。

「誰の味方でもない。強いて言うなら……愛菜ちゃん、かな?」

「はははっ。お前が一番、鬼の属性を濃く受け継いだようだな」

「そうかもしれないな……」

その時の周防さんの瞳には、あの優しさが宿っていなかった。
どこか遠く、光のない空間を見つめるような目。
私を見ているはずなのに、どこにも焦点が合っていない。

その表情が、夢の中のはずなのに、やけに冷たくて。
ショッピングモールで遊んだ私の知っている周防さんじゃないみたい。

(サンストーン。今の周防さんに渡したら……また笑ってくれるかな?)

そんな事を考えている内に、輪郭がボヤケていく。
そのまま、浮遊する感覚に身を任せたのだった。





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最終更新:2025年07月21日 19:07