ゆっくりと、まぶたを開ける。
視界に飛び込んできたのは、見慣れない天井と、灯っていないダウンライト。
どこかぼんやりとした意識のなかで。
ここが周防さんの診療所だったと思い出すのに、数秒かかった。

(……朝、になったんだ)

身体が少し重たい。
心もざわついている。
不穏な夢をみていたような気もする。
──それも目を開けた瞬間に、全部こぼれ落ちてしまった。

カーテンの隙間から、柔らかい光が差し込んでいる。
私はベッドの縁に腰掛けてから、ゆっくりと立ち上がり、ピンク色のカーテンをそっとめくる。
それはまだ真新しく、洗濯糊が効きすぎて少しだけゴワついている。

「うわ……」

視界いっぱいに広がるのは、どこまでも続く海。
朝日に照らされて、水面が無数の粒子のように輝いていた。

「海を……見るの、久しぶりだな」

胸の奥に溜まっていた重たいものが、ふっと浮かび上がるのを感じた。
指先で髪をまとめて、軽くゴムで結ぶ。
それから足音を立てないように、そっと部屋を出た。

リビングはしんと静まり返っていて、壁掛けの時計は朝の六時を指している。

(少しだけ……外に出ても、いいよね)

「好きにしていい」と言われた言葉を思い出す。
私は玄関へと向かい、昨日脱いだままだった靴を履いて、そっと扉を開けた。

昨日の夜は風が強かったのに、今朝はまるで、すべてがやさしくなったように感じる。
潮風が頬を撫で、東の空には太陽が顔を出したばかりだった。

「……すごい、綺麗……」

海の色も、空のグラデーションも、眠っていた五感をゆっくりと呼び起こしてくる。
心に滲んでいた不安が、じわじわと溶けていくのがわかった。

(昨日まで怖かった。でも──)

不安と逃げ場のない現実から逃れてきたこの場所が、今は少しだけ、私の居場所になり始めている気がする。

靴下も履いていない。
部屋着のままで、髪も適当にまとめただけ。
だけど、目の前に広がる景色は、そんなことなんて吹き飛ばすくらいに美しくて。

(こんな景色……誰かに見せたかったな)

お義母さんや、香織ちゃん、隆、チハル。
協力してくれてる冬馬先輩や出て行ったままの春樹。
出張中のお父さんや一郎くんと修二くん。
みんなの顔が頭に浮かんで、胸の奥がきゅっと痛んだ。

「……大きく手を広げて、ラジオ体操かな?」

突然聞こえた声に、肩がびくりと跳ねる。
振り向くと、周防さんが眠たげな顔で、長袖のTシャツにゆるいパンツ姿で立っていた。

「お、おはようございます……」

手を広げていたのが恥ずかしくて、俯いたまま挨拶する。

「ん、おはよう。こんな朝っぱらから元気だな」

「い、いえ……海が見えたのが嬉しくて……だから、外に飛び出してしまいました」

言い訳のように口にすると、ボサボサの髪が風に揺れて頬に触れた。
寝起きのままの自分を見られたことが、無性に恥ずかしい。

「俺も寝起きのままだからな。そんなに恥ずかしがらなくていいさ」

「心、読まれちゃいましたか?」

「読まなくたって、顔を見れば分かるさ」

言葉を交わしながら、ふたりで同じ方向を見つめる。
朝日がもう少し高くなって、海も空もすっかり目を覚ましていた。

「……本当に、素敵な場所ですね」

「そうか? 景色はいいけど、塩害はひどいぞ。車もすぐ錆びるし、エアコンの室外機は高いやつじゃないとダメでな」

(……大人って、色々考えなきゃいけないんだな)

ふと、昨日とは違う風の匂いに気づく。
潮の匂いに、どこか懐かしい土の匂いが混ざっている。

「朝は冷えるだろ。部屋に戻るか?」

「はい。まず、身支度を整えないと……」

「朝飯も一緒に食おう。俺達の共同生活の第一歩、初めての食事だからな」

「はい……!」

──不安のなかで差し出された何気ない優しさ。
それに、無性に嬉しくて。

ここには、私を気にかけてくれる人がいる。
その事実が、たったそれだけのことが、今の私にとって何よりも心強かった。

だから、帰りの足取りは、昨日よりもずっと軽かった。




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最終更新:2025年07月18日 15:44