ピンク色のカーテンが朝の光を甘く濾過して、部屋全体を柔らかく満たしていた。
家から持ってきたドライヤーには手をつけず、備え付けのそれを使う。
ごう、と頼もしい音を立てて吹き出す温風は、私がいつも使っているものよりずっとパワフルで、それでいて髪を優しく労わるようだった。
指通りが変わっていくのがわかる。
ずっと欲しかった、髪にしっとりとした艶が生まれると謳われた人気のドライヤー。
その温風は、まるで周防さんの気遣いが形になったみたいで、私の心までそっと解きほぐしていく。
(わぁ、やっぱりいいな……)
思い切って手を出すにはためらう値段。
試す機会もなかった憧れの品を、今こうして使えている。
その小さな喜びを、ゆっくりと噛みしめる。
机に置かれた大きめの鏡に、自分の姿を映す。
ロールブラシで髪を梳かしながら、鏡の奥の私を見つめた。
(周防さんって……すごいなぁ)
きっと、普通の男性ならここまで思い至らない。
ドライヤーひとつ、鏡ひとつにしても、使う側の気持ちが考え抜かれている。
それはきっと、彼が人の心を読めるからなのだろう。
相手の立場になって考える「気遣い」を、彼は能力によって、より深く、より先に実現できてしまう。私が言葉にする前の望みすら、彼は掬い上げてしまうのかもしれない。
ふと、思う。
鏡はただ私の姿を映すだけだけれど、周防さんの瞳には、この鏡とは違う何が映っているのだろう。
私の知らない私、言葉にならない本音まで、すべて見透かされているのだろうか。
少しの怖さと、抗いがたい好奇心が胸の中で混ざり合う。
身支度を整え、15畳はあろうかという広々としたLDKのドアを開ける。
すると、朝の光が差し込むアイランドキッチンの前で、彫像のように固まっている周防さんが目に飛び込んできた。
その手には、小さな卵が一つ、まるで聖遺物のように握られている。
「あの……どうかしました?」
「いや、朝食を作ろうと思ったんだが、やり方がよく分からなくてな」
彼の視線の先にあるキッチンは、まるでモデルルームのように磨き上げられ、生活の気配が希薄だった。
彼自身が、この美しい空間で少しだけ迷子になっているように見える。
「実は私も、炊事はあまり得意ではなくて」
『お前の味覚はおかしい!』
昨日の隆の言葉が、耳の奥で不意に蘇る。
ずっと自信があったはずの家事。
でも、あの言葉は的を射ていた。
今や私は「メシマズ」の称号を、甘んじて受け入れるしかないのだ。
「そうか。じゃあ、この卵はどうしようか……」
何でもスマートにこなしてしまいそうな彼にも、苦手なことがある。
その事実に、私の心の強張りがふっと緩むのを感じた。
完璧だと思っていた人に人間らしい一面を見つけた時のような、小さな安堵と親近感。
「任せてください、と言えたら格好いいんですけど……幼馴染にご飯がマズイと断言されるくらいなので、私も自信ないんです」
私と周防さん、二人して彼の手の中の卵をじっと見つめる。
何とも言えない、ぎこちない沈黙。
でも、それは嫌なものではなくて。
むしろ、不器用な者同士が秘密を分かち合ったような、不思議な連帯感が生まれていた。
「みそ汁と飯はインスタントがあるんだ。だから、せめて一品くらいは、と思ってな」
「じゃあ、卵焼きにしましょうか。それなら、きっと何とかなります」
「そうだな。卵焼き……つまり、卵を焼けばいいのか?」
「だし汁、きっと必要ですよ。だし汁を溶いた卵を焼けば、卵焼きになるはずです」
「そうか。この辺りに粉末のだしがあったような……」
手順さえおぼつかない彼が、なんだか微笑ましい。
普段、彼は何を食べているんだろう。
そんな素朴な疑問が浮かんだ、その時だった。
だしを探す彼と肩が、ふわりと触れ合った。
「あ、すみません」
触れた部分から、彼の体温が伝わってくる。心臓が小さく跳ねた。
「俺の普段の食事は……栄養補助食品とかかな。ブロックとかゼリーとか。あと、プロテインも飲む」
私の心を読んだ彼の声が、すぐ側で響く。
「心、読まれちゃいましたね」
「あぁ、すまん。つい、心の声に応えてしまった」
「いいえ、大丈夫です。そうなんですね……ショッピングモールの時は、あんなに美味しそうにカレーを食べていたので、少し意外でした」
「食事はコミュニケーションでもあるからな。誰かと囲む食卓は大切だ。……ただ、一人の時は栄養が摂れればそれでいい」
彼の言葉に、彼の持つ合理性と温かさの両面を感じる。
もっと、この人のことを知りたい。
だし汁を用意し、卵を二つ、ボウルに割り入れる。
黄金色の黄身が、つるりと滑り落ちた。
次は味付け。
甘い卵焼き、しょっぱい卵焼き。
これは好みが分かれるところだ。
「周防さんは、甘い派ですか? しょっぱい派ですか?」
「そうだな。強いて言うなら、甘い方が好きかな」
「わかりました」
彼の好みに応えられることが、単純に嬉しかった。
調味料ラックから、白い陶器のポットを手に取る。
これがお砂糖のはず。
スプーンで山盛りに一杯、さらさらと白い結晶を掬い上げた、その瞬間。
「愛菜ちゃん」
「はい?」
「それ、そんなに入れたら塩辛くならないか?」
「え?」
「その容器の蓋、よく見てみろ。salt、と書いてある」
彼の指差す先、ポットの蓋に刻まれた小さな文字。
砂糖の甘い輝きだと信じて疑わなかった白い粒は、鋭い塩の結晶だった。
「ご、ごめんなさい!」
顔から火が出るように熱い。
もし彼がいなかったら、とんでもないものが生まれるところだった。
「いや、気にするな。俺も似たようなもんだから」
彼はそう言って、困ったように笑う。
「そんな! 私、人が食べられないもの作ってしまうとこでしたし」
隆に指摘されて気を付けているつもりだったのに。
また同じ間違いをしてしまうところだった。
「俺も冬馬によく呆れられていたんだ。結局、冬馬の方が家事が出来るようになっちまったぐらいだからな」
「え!? そうなんですか?」
驚き過ぎて、思ったより大声になってしまう。
「ああ。アイツ曰く、俺に頼むくらいなら、自分でした方がまだマシらしい」
どちらかと言えば、冬馬先輩の方が生活の匂いがしないイメージなのに。
人は見かけによらない。
それはきっと、目の前のこの人のことも。
完璧に見えるその奥に、不器用で、人間らしい温かさを隠している。
私たちの始まりは、甘くなるはずが、かなりしょっぱくなりかけた。
なんだかそれすらおかしくて、不器用な私たちそのものだな、とちょっとだけ思ってしまうのだった。
最終更新:2025年07月24日 03:35