「「いただきます」」

小さな声が、静かなLDKにぽつりと響き、重なった。

目の前の食卓には、レトルトのご飯を温めただけのものと、お湯を注いだだけのインスタントの味噌汁。
そして、私たちのぎこちない共同作業をそのまま形にしたような、不格好な卵焼き。

(やっぱり、綺麗な四角にはできなかったな……)

箸でつまんだひとかけらを、おそるおそる口に運ぶ。 

温かくて滑らかな感触が、舌の上を通り過ぎていくだけ。
噛みしめても、味も香りも何もないまま、あっという間に消えてなくなる。
それはまるで、熱だけを持った虚無を食べているようだった。

「うん。見た目は少し違うが、思ったより上手に出来たな」

彼の優しい声が、今はただ空虚に響く。

「そ、そうですね」

(ああ、やっぱり……)

昨日までは、まだ微かに残っていたはずだった。
八宝菜の油の匂い、野菜の持つ甘さの記憶。
でも今は、匂いすらもほとんど感じない。
世界から、味が、香りが、大切な何かがごっそりと抜け落ちてしまったかのようだ。

(思ったより、ずっと進行が早い……)

私の箸が止まっていることに気づいたのだろう。
周防さんの静かな視線を感じる。

「あまり進んでいないようだな?」

「お、美味しいですよ!」

取り繕うように味噌汁をすする。
温かい液体が喉を滑り落ちる感覚だけが、唯一の現実だった。
慌てて卵焼きに箸を伸ばし、口いっぱいに頬張る。

「私も卵焼きは甘い派なんです。周防さんと同じなんて、奇遇ですね。うん、甘くて、出汁の味がしっかり効いてて、すごく美味しいです!」

悟られてはいけない。
心が読める彼だからこそ、気づかせてはいけない。

触れていなければ、微かにしか分からない。
以前、彼が教えてくれた言葉を、お守りのように胸の中で繰り返す。
この味覚異常は、冬馬先輩と契約した代償に違いない。
だからこそ、計画してくれた周防さんを、心配させるわけにはいかないのだ。

(周防さんも、冬馬先輩も、私のためにしてくれたことなんだから)

「少し塩が効きすぎて辛いが、悪くないと俺も思うぞ」

卵焼きを食べ終えた周防さんが、こともなげに言った。
その一言に、私の世界の時間が止まった。

「そうですね、すこし塩辛いですよね。……っ、て……え?」

脳が、彼の言葉の理解を拒む。
私は、砂糖を入れた。
甘いのが好きだと言った彼のために。

なのに、彼は「塩が効きすぎた」と、今、確かにそう言った。

「周防さん……私、砂糖を入れましたか? それとも……塩、だったんでしょうか」

疑念は、自分でも驚くほど低く、冷たい声になって喉からこぼれ落ちた。

「愛菜ちゃんが最初にスプーンで掬ったのは、間違いなく砂糖だった。俺は見ていた。だけど、君が目を離した隙に、俺がラベルのついた蓋を入れ替えたんだ。だから、この卵焼きに入れたのは、塩だな」

「それって……」

「愛菜ちゃんは、最初から正しかったんだ」

「そんな……どうして、そんなことを……」

「調味料を探す時に肩がぶつかっただろう? あの時、読めてしまったんだ。君が食事を憂鬱に思っているのを。もしかして、と思ってね。こうすれば、君が隠している憂鬱の理由も、自然と分かるだろう?」

彼の言葉が、じわじわと心を侵食してくる。
優しさなのか、試されているのか、分からなかった。

食事だけでも、普通でいたかった。
能力に生活を侵されても、身体だけは、私のままでいたかった。
最後の砦だったはずの日常が、足元から崩れていく音を聞いた。
それが、ただただ、怖かった。

「俺にウソは通じない。愛菜ちゃんも知っているはずだ」

「ウソなんて……ついてません。私は……」

「俺を傷つけないための優しさか? それとも、自分自身を欺くためか?」

(どちらとも……)

違う、と叫び出しそうになって、はたと気づく。
彼の言う通りだ。
だって、彼は全てお見通しなのだから。
どんなに取り繕っても、心の奥底まで見透かされてしまう。

「俺に欺瞞は通じない。これからしばらく一緒に暮らすんだ。本当のことを、話してくれないか?」

吸い寄せられるように、周防さんを見る。
真剣な眼差しが、まっすぐに私を射抜いていた。
心配と、詰問と、そして底の知れない静けさが混ざり合ったような、感情の読めない瞳。
その瞳に見つめられると、どんな見せかけの元気も、薄紙のように剥がれてしまう。

「味が……あまり、しなくなって……食事が、楽しくなくなりました」

諦めにも似た気持ちで、私はようやく口を開いた。

「いつからだ?」

「冬馬先輩と……剣の契約をしてからです」

「鬼化か。巫女に近づくには避けられない道だ。味覚に出たのは不運だったな」

「鬼化……? 私が巫女と呼ばれることと、関係があるんですか」

「巫女は鬼の姫だ。覚醒すれば、より鬼に近づく。古代の鬼は、本来、獣や人の肉を主食としていた一族だからな」

人の、肉が、食料。
その言葉が、まるで異物のように耳の奥にこびりつく。
自分の内側に潜む、得体の知れない“何か”に、背筋が凍るような恐怖を感じた。

「苦痛なら、食べる必要はない」

「……はい」

私は俯き、そっと箸を置いた。
その時、無機質なアラーム音が部屋の沈黙を破る。

「診察の準備の時間だな。悪いが、話はここまでだ」

「わかりました」

「君の食事のことも、考えておく。午前の診察が終わるまで、自室にいるといい」

「……後片付けは、私がやります」

「頼む。それじゃあ、行ってくる」

「はい。いってらっしゃい」

ハンガーから白衣を羽織り、診察室へと続くドアに向かう彼の背中。
日常へと戻っていくその姿が、取り残された私との間に、見えないけれど決定的な壁を作ったように感じた。
食器に残された、味のしない卵焼き。
最後の望みを繋ぐように、一口だけ食べてみる。
すると、喉の奥で微かな苦味に変わっていった気がして。

私は──その違いすら、まるでガラス一枚を隔てた向こう側の出来事のように、ただぼんやりと見つめることしか出来なかった。


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最終更新:2025年07月23日 14:16