午前の時間は、まるで水底にいるように静かに過ぎていった。
自室のベッドに横たわり、天井の木目をただぼんやりと見つめる。
思考はまとまらず、ただ「鬼化」という言葉だけが、頭の中で重たい鐘のように響き続けていた。

私が、鬼になる。
人の肉を食べる人ならざる者。
否定したくても、冬馬先輩との契約から感じている身体の異変。
それと突きつけられた現実があまりに合致しすぎていて、言い訳すら思いつかない。

その事実が、自分の身体の内側からじわじわと染み出してくるようで、言いようのない恐怖に全身が強張る。
冬馬先輩と契約したのは、私の意志だった。
でも、こんなことになるなんて、知らなかった。

(周防さんは、知っていたのかな……)

いつから? どこまで?
彼のあの静かな瞳は、この結末までも見透かしていたのだろうか。
疑念が湧くたびに、朝の彼の真剣な眼差しがちらついて、思考をかき消してしまう。

コンコン。

控えめなノックの音に、身体がびくりと跳ねた。

「愛菜ちゃん、入るよ」

返事をする間もなく、ドアが静かに開く。
そこに立っていたのは、白衣を脱ぎ、ラフなカットソー姿の周防さんだった。
「医師」の仮面を外した彼は、昨日までの「気のいいお兄さん」に戻ったように見える。
そのことに、ほんの少しだけ安堵している自分がいた。

「昼食の用意ができた。食べられそうか?」

「……はい」

本当は、食欲なんて少しもなかった。
でも、断れる雰囲気ではないことを、私はもう知っていた。

LDKへ向かうと、テーブルの上にはすでに二つの「食事」が用意されていた。
片方は、見慣れた銀色のパッケージ。
彼が朝に話していた、プロテインバーだろう。
そして、もう片方。
私の席に置かれていたのは、白い洋皿に美しく盛り付けられた、鮮やかな赤色の──肉だった。

艶やかな赤身に、繊細なサシが入っている。
添えられた薬味の緑が、その赤色をさらに不気味なほど引き立てていた。

「これは……?」

「馬刺しだ。熊本から冷凍で取り寄せた、新鮮なものだよ」

周防さんはこともなげに言って、自分の席に着くと、プロテインバーの包装をバリ、と無造作に破った。

「鬼化の進行に伴う味覚異常について、いくつか文献を調べてみた。結論から言うと、君の味覚は人間が美味しいと感じる『旨味』への感度が著しく低下している。代わりに、生物が本来持つ、鉄分やアミノ酸への感覚が鋭敏になっている可能性が高い」

彼は、まるで講義でもするように、淡々と説明を続ける。

「つまり、加熱調理されたものより、生のタンパク質の方が、君は『味』を感じやすいはずだ。その中でも、アレルギー反応が最も少なく、栄養価の高い馬肉が、現状の君にとっての最適解だと判断した」

最適解。
その言葉が、やけに冷たく響いた。
これは、私のための食事じゃない。
「鬼化」した私という、未知の症例に対する、臨床実験みたいで。
高村が行っていた能力者を実験動物のように扱っていた過去を彷彿とさせた。

「……生肉は、少し……」

「抵抗があるのは分かる。だが、これは君の身体を維持するための『治療』だと思ってくれ。無理にとは言わないが、このまま何も食べなければ、衰弱するだけだ。それは、非合理的だ」

有無を言わさぬ、静かな圧力。
非合理的、という言葉が、私に逃げ道を許さない。
私は震える手で箸を取り、恐る恐る、一切れの肉をつまんだ。
ひやりとした感触が、箸を通して伝わってくる。

意を決して、口に運ぶ。
舌に触れた瞬間、これまで感じたことのない感覚が、脳を直接揺さぶった。
久しぶり過ぎてガツンと殴らような、重い衝撃。

(……味が、する)

鉄錆のような、微かな風味。
噛みしめると、とろりとした食感と共に、血の匂いを凝縮したような、濃厚な何かが口の中に広がっていく。
忘れていた感覚。
失われたはずの世界。
それは、決して一般的な「美味しい」という言葉で表現できるものではなかったけれど──
今の私にとって、それは紛れもない「味」だった。
そして、私の身体が、本能が、それを「欲している」と叫んでいた。

その事実に気づいた瞬間、ぞっとした。
自分が、人間ではない何か別のものに、確実になりつつある。
その抗いがたい証明を、今、この舌で味わってしまった。
それも、本能に抗えない誘惑として。

私の顔から血の気が引いていくのを、彼は見逃さなかった。
プロテインバーをかじる手を止め、じっと私を見つめている。

(見られたくない……こんなもの、食べてるところなんて)

生肉を咀嚼する自分の姿が、獣のように思えて、たまらない羞恥心がこみ上げてくる。

私の直接的な思考が読めてしまったのかもしれない。
周防さんは、何かを納得したように小さく頷くと、静かに席を立った。

「……そうか。ごめんな、愛菜ちゃんがまだ10代の女の子だって配慮が足りなかったよな」

彼の声は、どこまでも穏やかだった。
ショッピングモールで一緒に買い物をした時、そのままで。
医師の顔とは違う、もう一つの私が知る周防さん。

「食事は、必ずしも誰かと共にする必要はないしな。特に、それが『治療』であるなら、一人で静かに行う方が、精神衛生上も合理的かもしれない」

彼はそう言って、食べかけのプロテインバーを手に、キッチンの方へ歩いていく。

「あの……! 私の身体は元には戻れるんですよね? また、前みたいに人の食事に戻れるんですよね?」

前のめりになって、キッチンの周防さんに縋り付くように必死で尋ねた。

「確率は限りなく低いだろう。神の力で封じられて、人に近くなっているだけで……。元々、巫女は鬼なのだから」

「元々……そんな……」

そう。
味覚の違和感は、ずっと昔から。
私の作った食事から、家族が逃げていた理由も。
周りから疎まれていたような、うっすらと残る曖昧な記憶も。
全部、説明できてしまう。

「愛菜ちゃんも、急には受け入れられないはずだ。だから、明日からは時間をずらそう。俺が先に済ませておくから、後で、ゆっくり食べるといい。その方が、君も落ち着くだろう」

完璧な配慮。
完璧な優しさ。
でも、それは私の心を軽くはしてくれなかった。
むしろ、見えない檻に閉じ込められたような、息苦しさを覚える。

「俺は自室で少し作業をしている。……食べ終わったら、声をかけてくれ」

そう言い残し、彼はリビング横の部屋に向かってしまった。
一人、食卓に取り残される。
目の前には、まだ大半が残された、血のように赤い肉。

彼の背中を見つめながら、私はもう一口、その肉を口に運んでいた。
恐怖と、ほんの少しの安堵と、そして自分の身体が乗っ取られていくような絶望を感じながら。

彼の管理のもと、ゆっくりと「鬼」になっていくのを受け入れる他ない。
それ以外の選択肢は、私に残されていない。

「食べるしか、ない」

目にも鮮やか過ぎるほどの赤色。
それをゆっくり箸で掴む。
口の中で血の味と肉を旨味を何度も咀嚼し、ゴクンと一気に飲み込んだのだった。




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最終更新:2025年07月24日 21:56