あれから数日が経った。
食事の時間はお互い合わないように、周防さんが配慮してくれている。

ここには、テレビもラジオもない。
周防さんは余暇を本を読んだり、調べ物をする時間にあてているようだ。

周防さんの診療時間は勉強したり、外を少し散歩したりして過ごした。
せめて近くにバス停がないか、周囲を散策したこともある。
結果は、自然豊かな何もない場所、という現実だけだった。

(とても穏やかな日常──)

私が最も望んでいた、切なる願いだった。
嫌なことも、ハプニングもない。
少し強引なところはあるけど、私のために配慮してくれる周防さん。
春樹やお義母さん、学校のことは心配しなくて大丈夫だと言ってくれている。
今はその言葉を信じることもできる。
なのに──望んでいた心の平穏のはずが、全く満たされない。

(午前の診療時間が終わる。周防さんが心配する前に戻らないと)

海沿いの砂利で舗装されただけの、車1台分の一本道。
足早に診療所へと、戻っていった。

「愛菜ちゃん、おかえり」

ダイニングテーブルには栄養ゼリーとプロテインドリンク、いくつかのサプリメント。
いつもの食事を今、終えたばかりのようだ。

「ただいま戻りました」

「また今日も掃除に洗濯までしてくれたんだな」

暇だから、掃除や洗濯は日課のようにやってしまう。
家でも当たり前にやっていたから、してないと逆に落ち着かない。

「私にできることなんて、これくらいしかないですから」

「いや、本当に有り難いよ。俺はこういうことは苦手だから」

「何でも言ってください。家事は小さな頃からやってたので得意なんです」

私の言葉に周防さんは満足そうに頷く。

「ありがとう。そういや、まだ愛菜ちゃんの食事がまだだったな。俺は自室に戻るよ」

「ま、まってください。あの、少しお話しませんか?」

(周防さんのこと、何も知らないから)

私の中の周防さんには2つの顔がある。
知的な大人で有無を言わせない、お医者さんの彼。
それと気さくな、愛嬌のあるお兄さんの彼。
それが同居できず、バラバラに存在しているように感じてしまっていた。

「分かった。何か俺に聞きたいことでもあるのかな?」

テーブルを簡単に片付けると、あらためて彼は向き直る。

「はい。あの……私、周防さんの事を何も知らないから。不躾だと思うんですが、教えてもらいたくて」

周防さんを、少しだけ怖いと感じている自分。
もっと親しくなりたいと、願っている自分。
2つの顔に違和感を覚えてる自分。
知れば、全てが一つに繋がる気がする。

「いいだろう。俺の何が知りたい?」

「あの、周防さんはどうして医師になろうと思ったんですか? アメリカに留学してまでして……何か特別な理由があったのかなって」

能力者の逃亡計画の失敗。
そのあとの留学。
昨日教えてくれた、周防さんとは違う名前の医師免許。
知りたい事が山程あるから。

「特別なことは何もないさ。高村は代々御匙医者……つまり医師の家系だ。当然俺もそれに連なる者だからな」

「それは何となく知ってます。私が知りたいのは……」

「俺の過去について知りたいって顔だな。じゃあ、覗いてみるか?」

「えっ……覗く、ですか?」

周防さんの、覗く、という言葉の意味が分からなくて、思わず聞き返す。

「この手を握れば、俺の記憶の一部を愛菜ちゃんに流し込めるんだ」

(流し込む……)

「本当にそんな事、できるんですか?」

「あぁ。試してみるか?」

(どうしよう……)

一瞬、躊躇う。
相手の記憶を覗き見る。
そんな感覚なのだろうか。

(でも……)

このまま、周防さんに不信感を抱いていたくない。
怖いと思う気持ちを拭ってしまいたい。

「お願いします」

「よし、じゃあ、握手だ。でも、覚悟しとけよ。大人の自分語りほど退屈なものはないからな」

差し出された彼の手を、私はためらいながらも、ゆっくりと握り返した。
大きくて、少しだけ乾いた、医師の手。
その指が、私の手を力強く、しかし優しく包み込んだ、その瞬間。

世界から、音が消えた。

目の前の周防さんの姿が、ダイニングの景色が、砂嵐のようにノイズに掻ききえていく。
代わりに、冷たい風が肌を撫でる感覚と共に、私の知らない景色が、脳内へ直接、奔流となって流れ込んできた。

これは、走馬灯。
誰か一人のものではない、この世界そのものの、痛みの記憶。

【約11年前】
白い部屋。
ガラスの向こう、無感情な大人たちに観察される、小さな少年。
そのガラスに、まだ子供の面影の残る少年時代の周防さんがぼんやりと映り込んでいる。
彼の瞳は、ただ静かに、ガラスの向こうの「観察対象」を見つめているだけ。
そして耳元で囁く、教育係の言葉。
『感情はノイズでしかない。あなたは次代の指導者として、常に冷静であるべきだ』
そして、その隣で。
私を置いて行ったはずの母が、唇を強く噛みしめ、顔を青ざめさせているのが見えた。
無機質なガラス一枚を隔てた、冷たい世界の始まり。その光景が、私の胸をざわりと撫でた。

【約10年前】
天井の配管から、雨のように水が漏れ落ち、床や壁を濡らしている。
怯える少女の手を、彼は強く引いて走り出す。
その背後で、あの小さな少年が、頭を抱えて苦痛に呻いていた。
その小さな手には、不釣り合いなほど長大な、真紅の剣が握られている。
泣き叫ぶ人々の声。
逃げ惑う能力者たち。
突如、施設内が停電し、絶対的な闇に包まれた。
耳に届くのは、恐怖に引きつる悲鳴だけだった。


あれから数カ月後。
地下通路を、少女と共に駆け抜ける。
多くの仲間たちが、後に続く。
しかし、その先に待ち構えていたのは、冷たい目をした白衣の研究者たちと、彼らに従う強化能力者の壁。
血に濡れたコンクリートの上で、彼は冷徹に分析する。
『敗因は情に流されたことによる判断ミス。仲間を信じるという非合理的な選択』
あらゆる感情を抑え込む、もう一つの声。
私も周防さんの記憶を通して、その冷徹な思考を確かに感じた。

【約9年前】
乾いた風が吹く、異国の空港。
彼の傍らには、勝ち気そうな瞳をした少年が立っている。
新たな挑戦へ向かうその一歩は、失ったものを取り戻すための、力強い誓いに満ちていた。

【約8年前】
無数の医学書に埋もれる日々。
手術室の無影灯が、彼の横顔を白く照らし出す。
『早く一人前になって、彼女を迎えに行く』
その一心だけが、彼を突き動かしていた。知識を広げ、腕を磨く。
その姿は、痛々しいほどに目的に囚われていた。

【約7年前】
強い日差しが差し込む、海外のカフェ。
PCのメール画面が、無慈悲な現実を映し出す。
『2年前に高村周防は死亡届けを提出済み』
『対象(コードネーム:543)も、同時期に衰弱により死亡』
亡き者となった自分自身。
迎えに行くはずだった少女すら、もういない。
カップを持つ指が、白くなるほど震えているのが見えた。
耳に届くいつもの声が囁く。
『壊れた者は廃棄対象。それが、高村のルールだ』
その声に呼応するように、心の退路が断たれ、音もなく深淵に閉ざされていく。
(このままでは……闇に飲まれて堕ちてしまう)
辺津鏡の能力で自分の中に入り込み、意識の調整を施した。


【現在】
いつものように白衣を纏う。
もう、何も感じない。
海辺に、小さな診療所が与えられた。
違う人間として生きることに、抵抗はない。
従うことも、反抗することも、等価値になった。
そして、今。目の前には私がいて、その手を、しっかり握っている。

パッと、視界が開ける。
流れ込んできた記憶の洪水が止まり、私はダイニングの椅子に座ったまま、喘ぐように息をしていた。
全身が汗で濡れている。

「……どうだったかな? 俺の、退屈な自分語りは」

彼は、先ほどとまったく同じセリフを、同じ笑顔で繰り返した。
でも、もう、私には彼の笑顔が、ただの優しいお兄さんのものには見えなかった。

わかってしまった。
彼の過去から、今に至るまでの、その道のりが。
そして、私は──
目の前の彼のことを、断片的にではあるけれど、その痛みと想いを、確かに共有してしまった。

怖い、と思っていた気持ちは、もうない。
その代わりに、途方もない時間の重さが、涙になって頬を伝った。
その貼り付けた笑顔を、私は、ただ見つめ返すことしかできなかった。


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最終更新:2025年07月27日 15:41