今日は、日曜日。
カレンダーの赤い丸が、今日が特別な日であることを、静かに主張していた。
ガラケーのカレンダーには文化祭の文字。
今頃、学校全体が一年の中で最も活気に満ちているはずだ。
香織ちゃんや隆、クラスのみんながお化け屋敷をしていて。
そういえば修二くんのクラスは焼きそばの屋台だったっけ。
一郎くんには、放送委員の仕事も任されていた。
本来なら文化部の出し物を見てまわったり、何を食べようか迷いながらぶらつく。
去年まで当たり前に楽しんでいた、キラキラした光景が目に浮かぶ。

本当は、私もそこにいたかった。
でも──今は仕方ない。
そう思うと、不思議と心は穏やかだった。
外の世界の喧騒よりも、この静かな診療所で過ごす時間の方が、今の私にはずっと大切に思えたから。

周防さんの過去を知ってから、私の中で何かが変わった。
彼が時折見せる、あの底の知れない静けさ。
その理由の一端に触れてしまった今、もう彼をただ「怖い」とは思えなかった。
もっと、この人のことを知りたい。
彼の孤独に寄り添える、たった一人の人間になれるのかもしれない。
そんな、おこがましいとさえ思える願いが、胸の奥で芽生えていた。

「あの、周防さん」

午後の読書タイム。
リビングのソファで本を読んでいた彼に、私は思い切って声をかけた。

「ん、どうしたんだい? 愛菜ちゃん」

分厚い専門書から顔を上げた彼の瞳は、いつものように穏やかだ。

「もし、お邪魔でなかったら……少しだけ、外を散歩しませんか?」

私の言葉に、彼は少しだけ驚いたように目を見開いた。
そして、すぐにふっと口元を緩める。
ふわりと微笑む仕草に、ドキッと胸が高鳴る。
目の前の笑顔は、過去の記憶の中で見た不器用で悲痛な少年の面影とも、もう重ならなかった。

「いいよ、行こうか。君の体調管理のためにも、適度な運動は必要だからな。気分転換にもなるだろうし、いいデータも取れる」

「データ、ですか?」

何のためだろう、と首を傾げる。

「ああ。歩行時の心拍数とか、呼吸の安定度とか。君の身体が、鬼化にどう順応しているかを知る、大事な指標なんだ」

医師としての、真剣な眼差し。
その言葉には、私の身体を心配してくれる、確かな優しさが滲んでいた。

(周防さんは、いつも私のことを一番に考えてくれてる)

その事が、なぜか無性に嬉しくて。
「はい!」と、私は弾んだ声で返事をした。


海沿いの道は、午後の日差しを浴びて、まばゆく光っていた。
二人きりの散歩は、少しだけ緊張するけれど、心地よい沈黙が流れる。

「周防さん、あの……」

「うん?」

「私、また、周防さんと一緒に食事がしたい、です」

言ってしまってから、顔が熱くなるのを感じた。
私のために、食事の時間をずらしてくれている彼の配慮を、無下にするような我儘だと分かっている。
それでも、言わずにはいられなかった。

私の言葉に足を止め、静かに私を見つめた。

「……いいのかい? 君は、生肉を食べているところを、見られるのが辛いんじゃなかったのか?」

「それは……そうですけど。でも、それよりも、周防さんと一緒に食卓を囲めない方が、私は……寂しい、です」

俯きながら、なんとか声を絞り出す。
彼の反応が怖くて、顔を上げられない。

しばらくの沈黙の後、彼の大きな手が、そっと私の頭に置かれた。

「そうか。……分かった。君がそう言うなら、今夜からそうしよう。俺も、君と一緒に食べる方が、ずっと嬉しいよ」

その声は、心の底から嬉しそうに聞こえて。
その心地よい低音が耳朶をくすぐる。
顔を上げると、彼は見たこともないくらい、優しい顔で笑っていた。
その笑顔が見れただけで、勇気を出してよかったと、本気でそう思った。

私たちは、診療所の裏手にある、小さな丘の上で夕日を見ることにした。
そこには、もう一つの別棟。
小さな離れの小屋がある。
散歩している時、いつもその小屋のことが気になっていた。
閉ざされたカーテン。
唯一の窓には格子とすりガラスが嵌められ、中を覗くことはできない。

「この小屋はなんですか? もしかして入院棟ですか?」

「……どうして、そう思う?」

一瞬の間があった。
ひんやりとした秋の海風が、前髪を撫でていく。

「男の人の声が……聞こえた気がしたので」

うめき声のような、囁き声のような。
横を通った時に成人男性の低い声が耳に届いたことがあった。

「ここは、ただの物置だ。入院患者を受け入れるほどの人手もないからな」

「そうですか。きっと気のせいですね」

何となく、静かに佇む不穏な空気が怖かった。
でも、ただの物置だと分かり、ホッと胸を撫で下ろす。

「丘の上だから、海風をモロに受けるんだ。悲鳴やうめき声に聞こえる事もあるかもしれないな」

「本当に風が強い日なんてヒューとかビューとかすごいですもんね。街ではこんなスゴイ風は吹きませんから」

心細さが、勘違いを生み出すのかもしれない。

でも──
人間では到底敵わないような、大自然を肌で感じられる場所。
そうした場所で歩いていると、自分の悩みもちっぽけに思えてくる。

空と海が、ゆっくりとオレンジ色に溶け合っていく。
世界から、音が消えていくような、魔法みたいな時間。

「綺麗だな……」

隣に座る彼が、ぽつりと呟いた。
私達を今日一日照らしてくれた丸輝く太陽が、水平線に吸い込まれていく。

「はい、すごく……」

「こよみも、夕日を見るのが好きだったんだ。何も話せないあいつが、唯一、穏やかな顔をする瞬間だった。……君とこうしていると、あの頃を思い出すよ」

彼の声には、深い哀愁が滲んでいた。
彼が、私にだけ、その心の柔い部分を見せてくれている。
その事実が、私の胸を温かく満たした。
彼が失った恋人の話を聞けるのは、きっと、過去を共有した私だけなのだから。

その日の夕食は、本当に、楽しかった。
テーブルの上には、私のための美しい馬刺しの盛り合わせと、周防さんのためのプロテインバーとサプリメントが並んでいる。
奇妙な組み合わせだけど、そんなことは気にならなかった。
二人で「いただきます」と言って、笑い合う。
それだけで、どんなご馳走よりも心が満たされた。

「うん、今日の君は、食欲もあるし、顔色もいい。素晴らしいな」

私の食べる様子を、彼は満足そうに観察しながら言った。

「はい! このお肉、すごく美味しいです!」

「そうだろう。この調子なら、鬼化の兆候も身体に馴染んだと言える。巫女の適性としても良い傾向だな」

彼は、にっこりと完璧な笑顔で、そう続けた。
その言葉の意味を、私は深く考えなかった。
ただ、彼が喜んでくれていること。
褒めてくれたこと。
それが、ただ嬉しくて。
私は、また一口、血のように赤い肉を、幸せな気持ちで口に運んだのだった。



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最終更新:2025年08月07日 20:51