消毒液のかすかな匂いが混じる、革張りの診察台に身を預けると、強張っていた身体からふっと力が抜けていく。
午前の喧騒が嘘のように静まり返った、午後の診療が始まるまでの穏やかな時間。
窓の外では、灰色の雲が空を覆い、間もなく泣き出しそうな気配を漂わせている。
マスクをしていても分かる優しい目元の周防さんが、私の左腕を慣れた手つきで消毒していく。
ひんやりとしたアルコール綿の感触と、非日常を告げる独特の匂い。
彼の診察室は、私にとって世界から守られた、二人だけの聖域だった。
「少しチクッとするからね」
周防さんの声は、いつだって凪いだ海のようだ。
「……はい」
その言葉と同時に、鈍い痛みが腕の内側を走る。
だけど、それはほんの一瞬の抵抗。
すぐに痛みは馴染み、チューブを通して私の血が身体から機械へと吸い上げられていく、静かな流れに意識が移っていく。
機械の低い作動音だけが響く中、遠心分離にかけられた血液は、血漿だけを抜き取られ、残りの赤血球は再び体内に戻されてくる。
自分の内側から流れ出たものが、もう一度温もりを取り戻して帰ってくる不思議な感覚。
けれど同時に、腕には石を乗せられたような、重苦しい鈍痛が居座り続ける。
「愛菜ちゃん、痛むかな。指先のしびれは?」
私の表情のわずかな変化を、彼は見逃さない。
「いえ、痛みとは違うんですけど……腕に、鈍い重さみたいな感覚があって」
「おそらく血液が固まるのを防ぐクエン酸が、血液よりも温度が低いからだな。それは心配ないよ」
「クエン酸……ですか?」
「ああ、抗凝固剤だ。その影響で、まれに体内のカルシウムが減って唇や指先にしびれが出ることがある。俺は感情を読み取れるだけで、君の感覚までは分からないから、どんな些細な異変でもすぐに教えて欲しい」
彼の言葉が、優しくも確かな境界線を引く。
私たちはこんなに近くにいるのに、決して交わることのできない医師と患者の関係。
その事実が、胸の奥を小さく冷やした。
腕の管を通じて、ひんやりとした液体が戻ってくるのを感じる。
自分のものだったはずなのに、どこか他人のもののような、不思議な冷たさ。
それがゆっくりと血管を遡り、やがて全身に溶け込んでいく。私は目を閉じ、その感覚に集中した。
(この血が、私の知らない誰かの、そして周防さんの役に立つなら)
鬼の血を引く私の、忌むべきものだと思っていたこの身体が、彼の研究の役に立つ。
それが、私がここにいることを許される、唯一の理由だった。
40分ほどの時間が過ぎ、機械が終了を告げる電子音が静寂を破る。
周防さんが手際よく針を抜き、穿刺部を強く圧迫してくれる。
ほんの少しの気だるさと、大きな達成感が心地よく入り混じっていた。
「ありがとう、愛菜ちゃん。本当に助かる。また2週間後に頼めるかな」
「はい。……あの、周防さん」
上半身だけ起こし、チューブを片付ける彼の背中に声をかける。
喉まで出かかった言葉はたくさんあるのに、一番聞きたいのは、こんな子供じみた質問だった。
「ん? どうした?」
「私……ちゃんと、周防さんの役に立ててますか?」
匿ってもらい、守られているのに、私にできるのは簡単な家事とこうして血を提供することだけ。
周防さんの親切に触れるたび、自分の無力さがもどかしくなる。
「しっかり役立ってるよ。愛菜ちゃんはまだ高校生なんだ。そんなに焦らなくてもいい」
その言葉は、どこまでも優しく、そしてどこまでも遠い。
この海沿いの診療所に来てからずっと、私の心を覆っている満たされない気持ち。
それは空に低く垂れこめる曇天のように、決して完全に晴れ渡ることはなかった。
(本当は、もっと……もっとお話がしたいな)
もし、私が大人だったら。
気の利いた言葉で、この沈黙を埋められただろうか。
寂しいなんて口にすれば、きっと彼はもっと私を子供扱いするだろう。
それが怖くて、私は黙って診察室を出ることしかできなかった。
言いつけ通り自室で安静にしていると、窓の外の空と自分の心が同じ色をしているように思えた。
何かをせずにはいられなくて、ごそごそと持ってきた鞄を漁る。
目当ては、小さなアクセサリーポーチだ。
その中から、そっと皮ひもを取り出す。
そして、袋に入ったまま大切にしまっていたサンストーンに、ゆっくりとひもを通していく。
「……できた」
私の手の中で、小さなネックレスが完成した。
赤みがかったオレンジの石は、内包物が光を反射して、夕焼けの最後のひとかけらを閉じ込めたようにキラキラと輝いている。
「きれい……まるで、あの日の海みたい」
周防さんと丘の上で見た、世界が燃えるような夕焼け。
あの忘れられない記憶が、宝石の色と重なって胸を締め付ける。
言葉にできないこの想いを、せめて形にしてそばに置きたかった。
そのとき、ふと窓の外を横切る人影に気づく。
診療所とは反対側にある私の部屋のすぐ前。
確かな気配に心臓が跳ねる。
主流派の追手かもしれないという恐怖が、レースカーテンを握る指を冷たくする。
そっと隙間からのぞき見ると、そこにいたのは、私をこの診療所まで送り届けてくれた親子、中学2年生の渚さんの横顔だった。
暗い部屋に差し込んだ一筋の光を見つけたような、切羽詰まった衝動に駆られる。
人恋しさが、寂しさのダムを決壊させた。
「渚さん!」
私は、ほとんど叫ぶようにして、その名を呼んでいた。
最終更新:2025年07月27日 21:19