「渚さん!」

私の声に、曇り空の下を歩いていた人影がはっきりと振り向く。
そして、ためらいもなく窓まで駆け寄ってきた。

「愛菜さん! やっぱりこの部屋だったんだ。カーテンがピンクだから、もしかしてって思ってたんだよ」

周防さんが「女の子の部屋だから」と選んでくれた、少し気恥ずかしかった桜色のカーテン。
それが今、思いがけない繋がりを運んでくれた。

「今日はどうしたの? 診察?」

この寂れた海沿いの一本道をわざわざ訪れるのは、診察の予約がある人くらいだろう。
渚さんの顔色を見る限り、どこか悪いようには見えないけれど。

「渚さん、どこか悪いの?」

そう尋ねた瞬間、彼女の快活な表情に、ほんのわずかな影が差した。

「まぁ、そうだね」

声のトーンが落ち、視線が少しだけ足元に彷徨う。
その気まずそうな雰囲気に、私は自分の言葉が無神経だったと気づいた。

「ご、ごめん! 不躾だったね」

慌てる私に、彼女は悪戯っぽく片目をつぶった。

「平気。同じ能力者だし……愛菜さんになら、見せてもいいかも」

見せる。
身体のどこかを見せてくれるのだろうか。
となると、女の子だし屋外よりも室内の方が良さそうだ。

「時間、大丈夫? 少しだけ、上がってく?」

「まだ診察の予約時間まで間があるから、オッケーだよ」

「じゃあ、勝手口から入ってきて。北側だけど、分かる?」

「あっちだよね。この間、周りをぐるっと一周したから大丈夫」

渚さんは勝手口の方を指さす。
彼女の言葉に、私の胸は小さく弾んだ。

「鍵を開けるね。私も、もっとお話したいって思ってたから、すごく嬉しいよ」

勝手口の鍵を開けると、少し湿った潮風と共に渚さんを迎え入れた。
「周防先生のお家、見るの初めて!」と、彼女は子供のように目を輝かせて家の中を見渡す。
その無邪気な姿に、私も自然と笑みがこぼれた。

お茶を淹れて自室に戻ると、先ほどの少し張り詰めた空気が嘘のように和らいでいた。

「それで……さっきの話だけど」

お茶を渡しながら、私はもう一度、少しだけ勇気を出して切り出した。

「何で定期的に病院に来てるかっていうと……うん、説明するより見てもらう方が早いかも」

そう言うと、渚さんは意を決したように制服のカッターシャツのボタンに手をかけた。
一つ、また一つとボタンが外され、彼女はくるりと私に背を向ける。
そして、ためらうことなくシャツをはだけた。

「あっ……」

息をのむ。
彼女の白い背中、その肩甲骨の下あたり。
そこは痛々しく盛り上がり、まるで生まれたばかりの雛鳥の翼のように、数枚の小さな羽根が生えていたのだ。
それは完成されることのない、不完全な翼の姿だった。

「私、具現化の能力者みたいなんだけど……能力はほとんどないくせに、こうやって翼のなり損ないみたいな変なものだけが出てくるんだよね」

その声は、諦めと、ほんの少しの自己嫌悪が滲んでいた。

「そう、なんだ……」

人によって能力の出方は色々みたいだ。
身体の外に出る人もいれば、私のように身体の中で着実に変わっていく人。
どちらにしても、普通の人からは逸脱した呪いのようなものである事に変わりない。

「周防先生に、定期的に切除してもらってるんだ。これがもう、麻酔が切れたら超痛くてさ。マジでイヤになる」

「痛いなんて……大変だね」

ありきたりな言葉しか出てこない自分がもどかしい。渚さんは手早くシャツを着直し、私に向き直った。

「でも、自分でも気持ち悪いから。だからガマンしてるんだ。周防先生は『イボみたいなもんだ』って笑って言うけどさ〜」

その言葉に、周防さんが私に見せる気さくな兄の姿が重なる。
それは、相手の心を軽くするための、彼の優しさという仮面の一つなのかもしれない。
私だって、そうやっていくつもの仮面を無意識に使い分けているのだから。

「ところで、愛菜さんはどんな能力者なの?」

普段できない話だからか、渚さんが身を乗り出して尋ねてくる。
その瞳は好奇心に満ちていた。

「私は夢で未来が見える時があって……それが最近は頻繁に起こるようになってきたんだよ」

「未来視! いいなぁ、テストの答案とかも見えたりするの?」

「あはは。そんなに都合よくは見えないよ。次の日に体育でケガする夢を見たら、現実でも本当にケガするとか。これが、どれだけ気をつけても起きるから不思議なんだ」

「らしいね。未来は見ることはできても変えられないって聞いたことある。それじゃ防ぎようないじゃんって思うけど」

「あと、過去にあったことも少しだけ見れるかな。例えば、周防さんの過去が知りたいなって強く思っていたら、夢に出てきたこともあるよ」

脳裏に、あの初夏の日の光景が蘇る。
コードナンバーでしか呼ばれなかった『こよみ』という少女に、周防さんが名前を与えた、あの優しい時間。

「スゴイね。過去視と未来視の両方ができるのは、あんまり聞いたことないかも。夢でみるって言ってたし、もしかして、世界を変えてくれるっていう伝説の巫女様だったりして?」

「巫女……」

その言葉に、心臓が大きく脈打った。
世界を変える、伝説の巫女。
そんな大層な存在と自分が結びつくことに、めまいがするような感覚に襲われる。

「ち、違うよ! そんな訳ないし、すごい人のはずないし!」

肯定すれば、何かとてつもなく大きなものに巻き込まれてしまう。
そんな予感がして、咄嗟に強く否定していた。

「だよね。数百年に一度生まれ出る、伝説の神様みたいな人なんでしょ? なんか狂信的な新興宗教みたいで、ちょっとバカらしいよね」

「私も最近になって夢が能力のせいだって知ったくらいだから。巫女様のことも、詳しくは知らなくて」

「んー、私もお母さんから聞かされたくらいの知識しかないけど。昔、施設がまだ機能してた頃は、能力者はみんなその巫女様の降臨を信じてた、とか? そんなこと言ってたよ」

その時、腕時計を見た渚さんが、いきなり勢いよく立ち上がった。

「大変! 予約の時間だ!」

「ほんとだ。じゃあ急がないと」

私たちは慌てて勝手口に戻る。靴を履き終えた渚さんに、私は精一杯の気持ちを込めて声をかけた。

「お話してくれてありがとう。すごく、楽しかったよ」

「私も! 今度は高校の話とか聞かせてね!」

「もちろんだよ。また、今度ね」

「愛菜さん、ありがとう! バイバイ!」

渚さんは診療所の方へ向かって走っていく。
その背中を見送りながら、私はさっきの言葉を反芻していた。

伝説の巫女の降臨。

私はそんな立派な人間じゃない。
この小さな世界で、自分の無力さにもがいているだけの、ただの女子高生。

(それでも……)

心の中に、小さな灯火がともる。

痛みに耐える友達のために、私にできることはないだろうか。
世界を変えるなんてできなくても、目の前にいるたった一人の心を、少しでも軽くすることはできないだろうか。
もしかしたら、周防さんは「無理しなくていい」と言うかもしれない。
それでも、私自身のために必要な気がするから。

どんよりとした曇り空の向こうに、ほんのわずかな光が差したような気がした。


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最終更新:2025年08月20日 10:14