気の抜けた足取りで、自室に戻ろうとする。
周防さんの期待に応えられなかった。
それが、自分の根拠のない自信からきていたこと。
馬鹿みたいに、特別なお姫様気分で舞上がっていたこと。
さっき診察室の扉の向こうに置いてきた、冷たい沈黙が、何度も、何度も、リフレインしている。
ふと、窓からオレンジ色に染まり始めた夕焼け空を見つめる。
すると、駐車場になっている場所にポツンと車が止まっているのが見えた。
(あれは……)
シルバーの軽自動車。
ナンバーも確認する。
間違いなく、私がここまで来る時に乗せてもらったものだった。
(渚さんのお母さんも、来ているんだ……)
もしかしたら、待合室で娘の診察を待っているのかもしれない。
でも、今は一人で、この、空っぽになった心と向き合っていたくなかった。
温かい、誰かの声が、ただ、聞きたかった。
勝手口で慌てて靴を履いて、夕暮れの、少しだけ肌寒い潮風の中へと飛び出す。
そして軽自動車のところまで、急いで駆けていく。
(誰もいない……)
車を覗き見ると、中には誰も乗っていない。
空っぽの車の横。
まるで自分自身まで空虚になってしまったかのように、力なくしゃみこんだ。
「もう、ずっと周防さんとしか話してない。渚さんと少しだけ話したのが、最後だった……」
こんな何もない場所に、人影はどこにもない。
人恋しい気分だったのに。
世界に、たった一人で、取り残されたみたいに感じる。
「愛菜さん?」
その声は、まるで祈りが通じたかのように、私の背中に、温かく降り注いだ。
話しかけてきたのは、渚さんのお母さんだった。
「渚さんの、お母さん……。良かった……」
「もうすぐ渚も来ると思いますけど……どうかなさいました? 顔色が、あまり良くないようですが」
「あっ、えっと……」
寂しくてお話したかった、なんて。
変な子に思われてしまうんじゃないかと思われそうで。
「あの、渚さんにこの前に身体のこと、教えてもらったので……大丈夫かなって、心配で」
心配だったのは本当だ。
それも分かってもらいたくて、不器用に伝える。
「あぁ、大丈夫。次は1カ月後、美波先生の診察だから、今回より早く治るだろうし」
その名前は、まるで、分厚い雲の切れ間から差し込んだ、一筋の光のようだった。
(そうだ、美波さん……!)
「美波さんの診察には、決まりというか、法則はあるんですか?」
何だか変な尋ね方になってしまった。
それでも、渚さんのお母さんは特に気にせず普通に答えてくれる。
「数週間に一度、この診療所で診てくださるの。確か、その日は周防先生はいつもご不在なのよね」
(周防さんの、いない日。その代役の、美波さん……)
それは、この閉ざされた世界に、たった一つだけ存在する、「抜け道」のように思えた。
「今度の渚さんの診察はいつですか?」
「そうね。1カ月後の金曜日の午後からになってるわね」
小さな紙を確認している。
予約表のようなものなのかもしれない。
「あの、美波さん……美波先生は、いつも金曜日なんですか?」
「ええ。前に予約だった時も、金曜だったと思うわ」
その時、周防さんと渚さんが診察室から出てくる。
その二人がこちらに近づいてくる。
今日に限って、次の患者が居ないのかもしれない。
「愛菜さんだ!」
嬉しそうに渚さんが私の手を取る。
その手の温かさが、凍えていた心に、じんわりと沁みた。
「渚さん、傷は大丈夫?」
「うん。今日は抜糸だったから。経過も順調だって」
その傷を周防さんと一緒に見ていたなんて言えない。
ウソばっかりの自分が嫌になる。
「愛菜ちゃん、渚ちゃんのお母さんと何を話していたのかな? 俺がイケてるとか?」
気さくで、軽いトーク術。
周防さんの軽やかな口調に渚さんが笑い出す。
「あはは! 周防先生なんて愛菜さんにとってはオジサンだよ!」
「オジサン。それはちょっと酷くないか?」
心底残念そうに呟く。
どこまでも、嫌味のない口調。
「さすがに、ちょっとムリだよね? 愛菜さん?」
「え、あっ、うん……どうかな」
私は何も言えなくて、言葉を濁す。
「ほら! 周防先生、愛菜さんもムリだって言ってるよ?」
「こら!渚。周防先生、うちの娘が失礼ばかりで……」
「いやいや、いつも元気でこちらも笑顔をもらってますから」
その完璧な、陽気なやり取り。
その輪の中に、私はいるようで、いない。
まるで厚い、透明なガラス一枚を隔てて。
彼らの世界の楽しげな声を、ただ聞いているみたいだった。
(周防さんの、本当の顔が、分からない……)
最初に会った頃は、こんな様子で。
話すと、とても楽しくて。
陽気な人だと、信じ込んでいた。
なのに、知れば知るほど、周防さんが分からなくなっていく。
いつもの物静かな「医師」の顔も。
今みたいな気さくな「お兄さん」の顔も。
たまに見せる、こよみさんを想う「悲しい」顔も。
そして、さっき私に向けられた、あの「冷たい」視線も。
どれも本当で、どれも、私を彼の本当の心から遠ざけるための、精巧な「仮面」のようにも見えてくるのだった。
最終更新:2025年08月01日 19:24