あれから、数日が過ぎた。
来るべき、金曜日のことだけを、ずっと、考えながら。
周防さんの前では、完璧な「聞き分けの良い子」を演じ続けた。
彼が淹れてくれる紅茶を「美味しいです」と微笑み、彼が差し出す本を喜んで受け取った。
余暇はなるべく教科書を開けて、予習と復習をする。
夜になると、日中につまずいた勉強の質問を周防さんに尋ねる。
いつも少しだけ、うれしそうに答えてくれた。
私の脈拍や心拍を記録し、静かに血を抜き取っていく、あの儀式のような時間でさえ、もう、何も言わなかった。
全ては、今日、この金曜日のために。
これは、裏切りじゃない。
これは渚さんを、そして、周防さんの管理に囚われている、私自身を救うため。
たった一つの、正しい道のはずだから。
その朝、周防さんは、珍しく、黒いジャケットを羽織っていた。
「少し、野暮用でね。今日は一日、留守にする」
「どちらへ、行かれるんですか?」
「日用品を買い足したり、人に会ったり。あと……こよみの、月命日なんだ。少し、墓参りしてこようと思う」
彼の声は、どこまでも平坦だった。
でも、その瞳の奥に。
一瞬だけ、私が記憶の中で見た、深い影がよぎったの見逃さなかった。
「代わりに、今日は、美波が代診に来る。あいつは、あくまで俺の代理だ。君の身体のことは俺が一番、分かっている。……余計なことは、話さなくていい。分かるね?」
釘を刺す、というよりも。
まるでチェスの駒を、一つ、そっと盤上に置くような。
静かだけど、有無を言わさぬ一手だった。
私は「はい」と、小さく頷くことしかできなかった。
午前の診療が終わった、昼下がりの時間。
私は息を殺し、リビングと診察室の間の扉を覗き見る。
すると、椅子に白衣姿で腰掛け、静かに本を読んでいる。
絵画のように美しい、中性的な横顔。
間違いなく、美波さんだ。
心臓が、大きく、一度だけ跳ねた。
今しかない。
「……あの、美波さん」
私のか細い声に、彼は、ゆっくりと本から顔を上げた。
その、色素の薄い瞳が、私を捉える。
「愛菜さん。……どうかなさいましたか?」
私はおずおずと診察室に入っていく。
「少し……美波さんにお尋ねしたいことがあって……」
久しぶりの他人。
話したいことは山程あるのに、上手く言葉を選ぶことができない。
「実は周防から、愛菜さんとは会話しないように言われています」
やっぱり、と思う。
周防さんは私を孤独にしたいんだ。
でも、なぜ?
またわからないことが増えていく。
「そうですか。わかりました」
周防さんにウソは、一切、効かない。
会話してしまうと、美波さんに迷惑がかかる。
だったら、ここは諦めるしかない。
「待ってください。愛菜さん……」
私はドアノブを持ったまま、振り返る。
「美波さん?」
「愛菜さんの顔色が悪い。もしかして……周防のことで悩んでますか?」
「はい。周防さんのことを知れば知るほど……迷路のように行き詰まってしまうんです」
目を伏せ、下を向く。
優しく、親切にしてもらっているのに、何故か段々と辛くなっていくから。
「そうですか。では、会話でなく治療に来た患者ということで、話を聞きましょうか?」
そう言うと、美波さんは患者が座る丸椅子に座るよう「どうぞ」と、促してくれる。
私は、「よろしくお願いします」と、頭を下げた。
「さっきも言いましたけど……周防さんのことが……私、分からなくなってしまって」
診察室の、硬い椅子に、向かい合って座る。
周防さんのの前では、どんな嘘も、見透かされてしまう。
そのプレッシャーに、毎日、押しつぶされそうになる。
「彼は、優しいんです。私のことを、誰よりも心配して、守ってくれている。……でも時々、すごく怖い。私が、私じゃない何か別のものに、作り変えられていくような気がして……」
美波さんは、黙って、私の言葉を聞いていた。
そして、私が話し終えると、まるで、遠い過去を見つめるように、ふっと、窓の外に、視線をやった。
「私の話が愛菜さんの質問の答えになっているのかは分かりませんが……高村の一族には、彼らが信じる、絶対的な『物語』があるのです」
「物語……ですか?」
悩み相談のつもりだった。
なのに突然、全く別の話が始まったような。
そんな感覚だった。
でも、美波さんは私に大切な事を伝えようとしてくれている。
それだけは、間違いない。
「ええ。彼らは、その『物語』を、一字一句、違えることなく、完璧に演じ続けることこそが、至上の善だと、信じている。ですから、役者の感情は、その『物語』の前では、意味をなさないのです」
その知的で、どこか物悲しい声が、静かな診察室に、吸い込まれていく。
とても抽象的だけど、私は黙ってその言葉を噛みしめて聞いていく。
「そして、その、高村の『物語』は。いつだって、一人の『巫女』の存在を、必要としてきた」
その言葉に、私は、息をのんだ。
やはり、高村の一族は、私を「必要」だから狙ってくるらしい。
必要といてるのは「胡蝶の夢」の能力なのだろうか。
「……これは、ただの古いおとぎ話だと思って、聞いてください」
彼は私と、視線を合わせた。
医師のように冷静で、しかし、その奥に、深い哀しみを湛えた瞳で。
「光が強ければ、影が濃くなるように。聖なる『巫女』の力が、この地に満ちれば満ちるほど、それと同じだけの、深く、そして濃い『鬼』の力もまた、生まれてしまう」
鬼。
それは味覚異常を起こしている、私自身のことのはず。
なのに、美波さんの話を聞いていると、鬼の姫である巫女は光なのか闇なのか、すら判断が難しくなる。
「高村の一族は、代々、その、世界から溢れ出した『鬼』の力を、自らの器に取り込み、そして、調伏することで、世界の均衡を保ってきた、と……彼らは、そう、信じているのです」
巫女は生まれながらに、鬼の姫として生まれる。
確かに、周防さんはいっていた。
私の中にいる、もう一人の闇=鬼を調伏。
その人格を抑え込むことを生業としていた、一族ということだろうか。
「光を、影によって、制御する。……それが、彼ら高村の『物語』。その器がまた闇を引き継ぎ、光のために闇を取り込む。その闇の力を次世代のために綿々と残していく。そうやって、高村は『物語』という名の縛りを重んじてきたのです」
「次世代のために、取り込む、って……それじゃあ、まるで……」
私が抽象的な言葉から拾った結論。
そのおぞましい言葉の意味を、問い返そうとした、まさに、その瞬間。
彼のポケットの中で、携帯が短く、鋭く振動した。
美波さんは、私の言葉を遮るように。
静かに、立ち上がった。
「……失礼。時間ですね。私の話は、ここまでです」
これ以上は話せない。
そんな、拒絶を含んだ言い方だった。
「……今日のことは、周防には、決して、話さないように。私からは、体調不良のために診察した、と伝えておきます」
「はい」
もっと、詳しく聞きたかった。
でも、周防さんには読心の能力がある。
迂闊な真似をすると、すぐに気づかれる。
美波さんが抽象的な言葉しか選ばない理由も、その辺津鏡の力を懸念したのかもしれない。
「彼もまた被害者であり、加害者。この『物語』が終わらない限り、連鎖も途切れることはない。愛菜さんも、あまり深く考えすぎないように。周防に勘付かれてしまいますから」
「美波さん、ありがとうございました」
私はペコッと頭を下げる。
少しだけ、なんとなく、分かった気もする。
相談してよかった、と、心からお礼を言う。
「最後になりますが……ああ見えても、周防は純粋ですし、善人なんです。それだけは、判ってあげて下さいね」
美波さんは穏やかなに微笑む。
その笑顔はどこか、寂しそうで。
そして苦しそうにも見えてしまう。
(周防さんは純粋で善人、か)
周防さんを傍らで支える、最も近くに居る美波さんの言葉。
だからこそ。
私も信じてみたい、そう思うのだった。
最終更新:2025年08月01日 19:28