手に持っている一輪の白い菊を、周防さんは見つめている。
それは彼がつい先ほどまで、死者に捧げていたはずの手向けの花だった。
その様子を美波さんと私は、ただ黙って見ていた。
「愛菜ちゃんの奇跡の力。……確かに美波の言う通り、とても恐ろしいと思ってる」
そう静かに呟く、と。
白い花を鷲掴みにして、まるで憎いものでも握り潰すかのように、強く握る。
開いていた鮮やかな白が、彼の指の隙間から、無惨にはみ出した。
花だったものは、その生命の輝きを急速に失っていく。
「恐ろしい力。けど、見てみたいな。……俺にも、巫女の奇跡を見せてくれないか?」
周防さんは握っていた拳を、ゆっくりと開く。
その手の上には、もはや花の形を留めていない、バラバラの、純白。
「死骸」が、あった。
無惨に砕けた花びらが、冷たい秋の風に震えている。
「私……そんな……ムリ……です」
「どうして? さっきは、出来ていたのに? この花も元に戻せるはずだろ?」
前屈みの姿勢で、手のひらを差し出される。
目の前には、細長い白い「涙」が、何枚も、何枚も、折り重なっていた。
視界も、恐怖と不安で滲んでいく。
「周防……! それでは、愛菜さんが可哀想です。やめてあげて下さい」
美波さんが私を庇うように、その腕で遮った。
それが私と周防との間に引かれた最後の「境界線」だった。
「美波。ずいぶん好き勝手、してくれたな?」
「それは。あなたが間違っているからです」
美波さんは、臆することなく。
見下ろしたままの周防さんを、静かに凝視する。
そして、断言するように呟いた。
「あなたのしていることは、支配だ。周防、また同じ過ちを繰り返すのですか?」
「……それは、どういう意味だ?」
「綾だって、そうだった。周防……本当は、分かっているのではないですか?」
(え、……こよみさんを支配?)
未だに月命日になると、お墓参りに行く。
それだけ深く、こよみさんを愛していたはずの周防さん。
それが「支配」と結びつかなくて。
「俺と、お前。……そして、あの男も」
周防さんは、丘の上の閉ざされた「倉庫」を、一瞥する。
そして、再び視線をこちらに戻す。
「罪を背負った、死ななければならない者ほど生き残る。……こよみは、死ぬべきじゃなかった。そうだろう? 美波」
それは、問いかけではない。
お前も俺と同じ「罪人」だろう、という、共犯者への冷たい「確認」だった。
美波さんはその強い言葉に、撃ち抜かれたまま動けなくなる。
「しかし、周防……」
反論を抑え込まれてしまったように、言葉を失う。
冷たい視線で見極めていた周防さんが。
まるで、興味を失ったかのようにひとつ、溜息を吐いて。
「俺はもう間違えない。誰も失う訳にはいかないんだ」
言葉と同時に、大きな手のひらを傾けた。
潮騒の風が、白い「涙」を彼の手の上からいくつも攫っていく。
それは、ハラハラと周防さんの足元に舞い散って。
残った菊の花びらを無造作に払うと、今度は私に向き直った。
「秋も深くなって、風も冷たい。愛菜ちゃんは家に戻りなさい」
言われるがまま、立ち上がる。
すると、その手首を強く掴まれた。
「愛菜さん。従う必要はありません」
その手は、美波さんのものだった。
彼のその冷たい指先が、震えているのに気づいた。
「でも……」
「あなたは苦しかったはずです。だから、私を頼ったのではないですか?」
(今も、苦しい)
変化のない、日常。
当たり障りのない、会話。
満たされない、心。
空っぽの、自分。
「私は……」
本心を言いかけた、その時。
「美波。その、汚い手を退けろ」
声は、静寂そのものだった。
だけど。
静けさの奥には、絶対零度の揺るぎない「殺意」があった。
私から引き剥がすように、美波さんの手を掴む。
そして、周防さんは静かに目を伏せた。
その長い睫毛が、まるで断頭台の刃のように映る。
すると。
美波さんの切れ長の瞳から、全ての輝きが失われていく。
その指先の力が抜け、糸の切れた人形のように、私の手首からだらりと滑り落ちた。
美波さんは完全な、放心状態になってしまった。
一点の灰色の空を見つめたまま、全く動かない。
「周防さん。……美波さんに、何を……?」
明らかに、様子がおかしい。
恐る恐る、周防さんを見上げる。
「ああ。あいつの『罪悪感』を、増幅させてやった。
しばらくは大人しくしてくれるはずだ」
(罪悪感……)
「さあ。美波が正気に戻る前に、帰ろう」
手首を掴まれる。
その力は、強くて痛い。
でも。
それを訴えることも、出来ない。
私のたった一つの「希望」が目の前で、壊されていく。
その光景に、ただ立ち尽くすしかなかったから。
干し肉も。
水筒も、そのままで。
引き摺られるように、温かいはずの我が家へと歩いていく。
今となってはどうしようもなく、冷たい「檻」へと、連れ戻されたのだった。
最終更新:2025年08月01日 19:48