瞼をゆっくりと持ち上げる。
視界に映り込んだのは、窓から差し込む夕焼けのオレンジ色。
静かな光が、ぼんやりとした室内に溶け込んでいた。

「……私、眠ってたの?」

唇が乾いている。
喉の奥に、砂が詰まったような違和感。
あの後の記憶が曖昧だった。
リビングに戻るまでの道のり、ただひたすらに沈黙していたことだけが脳裏に残っている。

──簡単に人の心を操るあの人が、怖い。
けれど、それ以上に許せなかった。
私は必死に訴えた。
「美波さんに酷いことをしないで」「やめて」と。
その言葉の端々が泣きそうな声になっていたのも覚えている。

……でも、それ以降の記憶がない。

私は自分の部屋の窓ににじり寄り、そっと外を覗く。
夕陽の朱が、駐車場に影を落としている。
そこには、美波さんの赤いスポーツカーとシルバーの軽自動車。

(美波さんは、まだここにいる……)
(そして、あれは──渚さんの家の車?)

胸が、鼓動を急速に早める。
もしかしたら。
もしかしたら、助かるかもしれない。
今までは、たとえ孤独でも「逃げる」なんて選択肢を持ったことがなかった。

でも、今は違う。

このままではいけない、ともう一人の自分が警鐘を鳴らしていた。
この場所に居続ければ、いつか自分も──美波さんのように、自分を自分でなくされてしまう。

心を決めると同時に。
私はドアを開け、廊下を駆け抜けていた。
靴を履く暇も惜しんで、裸足のまま外へ飛び出す。
夕方の風が、肌に冷たい。

駐車場の車に向かって、無我夢中で走る。
喉は焼けつくように渇いていたけど、そんなことはどうでもよかった。
唯一の望みに向かって、私は足を動かし続ける。

車の中には、渚さんのお母さんがいた。

「渚さんのお母さん!」

運転席の窓を叩く。
音に気づいて、彼女が扉を開けてくれた。

「愛菜さん? そんなに慌てて、どうかしたんですか?」

戸惑いを浮かべながらも、私の様子を察して車を降りてきた。

「お願いします、ここから……自宅まで乗せてください!」

「え、でも……入院中じゃないんですか?」

──入院。そういうことになっていたのか。

頭の奥が、冷たい水に浸かったようにゾッとする。
まるで舞台の背景が突然裏返ったような、ぞわぞわした違和感。

「違うんです……今は周防さんに匿われてる、ってことになってます。けど、それはきっと違う……! 私、気づいたんです。おかしいって。……ここに……閉じ込められてるのかも……って……」

言葉がうまくまとまらない。
頭の中では確かな危機感が渦を巻いているのに、口から出るのは断片ばかり。

「私、周防さんが怖いんです……! お願いです、乗せてください」

懇願の声が震える。
ただ、今は安全な場所に移動したい、それだけだった。

渚さんのお母さんは目を伏せ、しばし沈黙する。
やがて、ため息を一つ。

「……少し落ち着いて。あなたの気持ちはわかったけど、一度、周防先生と話をしてみたほうが──」

正論。
でも、それじゃダメなんだ。
今、戻ればもう二度と自分の意思では出られなくなる。

「違うんです! お願いです、説明は後でします。だから今すぐ……今すぐここを離れたいんです……!」

私は渚さんのお母さんの肩を両手で掴み、目を見て訴える。
その必死さに、彼女は目を見開いたまま、ようやく頷いた。

「……わかりました。じゃあ後部座席に。渚が戻ったら、すぐに出発しましょう」

「ありがとうございます……!」

安堵に肩が揺れる。
扉に手をかけた、その時だった。

「お母さん、終わったよ」

背後から聞こえた、あまりに無邪気な声。

振り返ると、そこには渚さんと、そして──周防さんがいた。

(美波さんじゃない……どうして……)

頭の中で、嫌な音が軋んだ。

「まだ背中は切らなくても大丈夫だって」

穏やかな口調で報告する渚さんに、母親は強張った表情で返す。

「あ、れ……お母さん、この人……誰?」

──凍りつく。

「何言ってるの、渚。愛菜さんでしょ?」

「愛菜さん……? お母さんの知り合いなの?」

その瞬間、胸の奥が冷たく引き裂かれたように痛んだ。

(まさか……記憶を……)

渚さんのお母さんが目を見開き、周防さんを睨む。
施設出身の渚さんのお母さんが察したのだ。

「まさか……渚に、能力を……!?」

怒りと恐怖が入り混じった声。

「お母さんの顔色が悪いようだ。大丈夫ですか?」

周防さんが、ゆっくり手を伸ばす。
その人の心を操る、非情な楔。

「やめ──」

掴まれたその瞬間。

渚さんのお母さんの瞳から、光が消えた。
身体が崩れる。膝から、砂のように落ちていく。

その身体を、周防さんが何の感情もなく支える。

「軽い貧血のようだ。しばらく休ませた方がいい」

「お母さん、大丈夫?」

渚さんが心配そうに覗き込む。

「心配いらないよ。少し疲れていただけだ。渚ちゃんはお母さんにもっと優しくしてあげなきゃな?」

「そ、そうだね。最近、少し反抗的だったかも……」

その声に安堵と、少しの後悔が滲んでいた。

私は、ただその光景を見ていることしかできなかった。
声が出ない。足も動かない。

「もう暗くなってきた。……愛菜ちゃんは、家に戻りなさい」

その言葉は、ただの忠告ではなかった。
鋼のような命令。
首輪のような重さを持つ言葉だった。

──行き場を、また失った。




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最終更新:2025年08月02日 12:35