あれから、数日が過ぎた。

外に出られないことにも、少しだけ慣れつつある自分がいた。
それが恐ろしいと思いながらも、生活の細部に思考が埋もれていく。

その日、ふと私は、あの日のツユクサのことを思い出していた。
周防さんは、もう摘まないと約束した。
けれど、ちゃんと守ってくれているだろうか――。
気になって仕方がなかった。
本当は信じたい。
でも、変化がない日常ではそんな些末なことも、大きな出来事に思えてしまう。

確認しよう、私は顔を上げた。

静まり返った廊下を、忍び足で歩く。
彼の部屋に入るなんて、本来はしてはいけないこと。
けれど、動かずにはいられなかった。

そっと扉を開けると、カーテン越しの光に浮かぶものが目に入る。
――青いツユクサ。

本来ならもう枯れているはずのその花は、いきいきと水を含み、まるで摘まれたばかりのように咲き誇っていた。

一輪挿しに活けられて、整然と置かれている。

その光景を見た瞬間、胸の奥で小さな音がした。

(……嘘、ついたんだ)

胸の奥が、じんと痛む。
疑いたくなんてなかったのに。
私はそっと、その一輪挿しを持ち上げ、リビングまで運んだ。


その晩。
食卓には、いつものように料理が並んでいた。

私の前には、馬刺し。
周防さんの前には、蒸し鶏と小松菜、それといつものブロック。
静かに並べられた品々は、外の世界と切り離されたこの家の中では変わらないものだった。

けれど、私は視線を逸らせずにいた。
テーブルの端に置かれた、あの一輪挿し――約束を破った証。

やがて、静寂を破ったのは私の言葉だった。

「……約束、破りましたよね。もう、摘まないって……そう言ったのに」

声はできるだけ、静かにしたつもりだった。
でも、思いは言葉より強くにじみ出ていた。

「君の言葉を借りるなら。一輪挿しが可哀想だっから。だから、約束を破った」

「可哀想……でも、それは……」

私は言い淀む。
花を摘まれたことに怒っているのに、彼の言い方には妙な温度があった。
一番の違和感。
それを指摘せずにはいられない。

「一輪挿しは、ただの物です」

「この一輪挿しには、持ち主だったこよみの残留思念が残っている」

彼はまるで、当たり前のことのように告げた。
その声は淡々としていて、どこか距離がある。

「でも! ツユクサは生き物じゃないですか。物と生き物を比べてること自体、間違ってます」

手折った時点で、その命は尽きるのを待つしかないから。

「この花に思念はない。俺にとってそれは、限りなく物に近い」

「それは、そうかもしれませんが……」

植物は動物のように鳴いたり、動いたりしない。
だから、その感覚は少しだけ分かる。

「この一輪挿しには、まだ想いがわずかだが、残っている。だから、俺は一輪挿しのために花を摘んだ」

「言っていることが……めちゃくちゃです」

会話が、かみ合わない。
話せば話すほど、意識がずれていく感覚に襲われる。

「もちろん、愛菜ちゃんの心も読めるさ。俺に対しての憧れに近い好意も、見える」

その瞬間、全身が熱を帯びる。
胸がドクンと脈打った。

そうだった。
私の気持ちなんて、とっくに――見透かされていた。
この動揺も、羞恥もお見通しなのだろう。

「でも! 今は、それだけの気持ちじゃないです」

もう、憧れだけの存在じゃない。
彼の行動に感じる異物感――心を読まれることへの嫌悪さえある。

「いい加減、教えてください。周防さんの目的は、何ですか……?
それが分からないと、もう、何を信じていいのか分からなくなる……」

私は、ぎゅっと膝の上で拳を握る。
ずっと、怖かった。
彼が善意で動いているのか、それとも――。

「俺の目的は、愛菜ちゃんが普段から感じている、純粋な望みだよ」

「……私の、純粋な……望み?」

自分のことなのに、その答えに戸惑う。

「トラブルや選択を極力排除した、起伏のない穏やかな日常。
愛菜ちゃんと初めて会った頃から、ずっと変わらない願いだ」

思い出す。
能力者たちに巻き込まれ、巫女として狙われて。
守られる代わりに、大切な人たちが遠ざかっていった。

だから、切実に望んだ。
もう嫌だ、って。
巻き込まないで、と。

美波さんも、渚さんも。
結局、誰も居なくなって。
気付いたら、周防さんだけが私の傍に残ってる。

「……そう。確かに、私の願いですね」

認めずには、いられない。
自分でも判っているから。

「愛菜ちゃんは変化を嫌う。だから、美波も、渚ちゃん親子も、君から遠ざけた。なのに、不満は募るばかりだ」

自分でも分かっている。
矛盾してる。
でも――

(気持ちが晴れることは、ない)

私は、誰かのために巫女の力を。
痛いという渚さんのために、癒しの力を使いたかった。
無力でも、いつか変われると信じてた。
──活かせる場所は、もう無いけど。

「その根本的で、最も純粋な願い。
恐らく幼い時から変わらず抱いてきた、愛菜ちゃんの本質。
見えるからこそ……その理想を体現したい」

そう言って、周防さんが私に歩み寄ってくる。
私は、その場から動けなかった。

(だって……これは)

かつて、美波さんが言っていた。
「周防は、純粋で善人だ」と。

その言葉を、私も少しだけ信じていた。
そして今も、信じてしまいそうになる。
目の前にある、私を捉えて離さない瞳。
それが、余りにも無垢で真っ直ぐだから。

「叶えるよ、何があっても」

彼の腕が、そっと私の身体を包む。
すっぽりと収まってしまうような感覚に、私は息を呑んだ。

そのまま、彼は私の髪に、静かに口づける。

心が揺れた。
この優しさが、本物であることを祈ってしまう自分がいた。

でも、願いを叶えるというその言葉の裏に、どこか「怖さ」を感じてしまうのは――なぜだろう。

満たされる気持ちと、渇いた虚しさ。
両方を抱えながら、私は静かに目を閉じた。




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最終更新:2025年08月04日 09:02