冷蔵庫の扉を開けた瞬間、心臓が跳ねた。
中の卵ケース、肝心の中身が──ない。
いや、正確には、私が……さっき割ってしまったのだ。
ひとつしか残ってなかった、最後の一個を。

仕方なく、リビングに向かう。
夕焼けの光が差し込んで、部屋の中があたたかい色に染まっているのが、逆にじわじわと胸にくる。

「……ごめんなさい、ゆで卵を作るつもりが、最後のひとつ、割っちゃいました」

背筋を伸ばして、まっすぐ言ったつもりだったけど、声の端がふるえていたのが自分でもわかる。

まだ、周防さんが怖い。
怒鳴ったり、暴力を振るわれる訳じゃない。
それなのに畏怖するのは、相手が読めない、掴みどころのない存在。
それが、背筋を冷やすのだ。

ソファにいた周防さんは、静かに本を読んでいて、私の言葉に小さく顔を上げた。

「わかった」

それだけ。
淡々とした返事。
怒ってる様子も、責めるような口調もなかった。

――けれど、私は知っている。

こういうときの周防さんの「わかった」には、色がない。
たとえば、私のついた小さな嘘をスルーするときや、明らかに納得してない話を流すときと、同じ色のない「わかった」。

「プロテインを、ソイからホエイに切り変える。数値は調整できる」

そう言って、立ち上がる。
いつもの血の通わない、無機質な返答。

彼は冷蔵庫を開け、無言でシェイカーと水を取り出している。
その背中を見てたら、私の手が勝手に動いていた。

「ちょっと待ってください」

袖をそっとつかむ。
振り返った周防さんの顔に、少しだけ、驚きがにじんでいた。
私は冷凍庫からひと袋を取り出す。
包まれたままの、赤い肉のかたまり。

「馬刺しを……半分こしませんか。これを……一緒に食べたいです」

その言葉を言った自分に、ちょっと驚いていた。
でも、渡したいって、自然と思った。
少しでも、知りたいから。

周防さんは、それを見て、小さく眉をひそめた。

「それは、君の分だ」

やっぱり、そう言うと思った。
でも、引き下がらないと決めていた私は、まっすぐ目を見て言った。

「でも、周防さんは教えてくれました。馬肉って、すごく良質なたんぱく質だって。ビタミンもあるし、脂肪も少ない、って。それなら理屈で言えば、プロテインドリンクより理にかなってるはずです」

私の声は少しだけ強かったかもしれない。
でも、たぶん必死だった。
だって、周防さんに「ただの代替」を選んでほしくなかった。
何より。
私の話を、ちゃんと聞いて欲しいから。

しばらくの沈黙のあと。
周防さんはそっとため息をついて、袋を受け取った。

「……理屈は正しい。ありがとう、俺も頂こう」

小さくても、その「ありがとう」が聞けたことで、なんだか胸の奥がふっと軽くなった。


真空パックに入った馬刺しを冷水で解凍する。
そして、真空パックから出した半解凍の馬刺しを薄く切っていく。
以前は、すでに切ってあるものを購入してくれていた。
でも、塊を自分でスライスした方が美味しいことが判って。
それから自分で用意するようになった。

ちょっと緊張しながら、ふたり分をお皿に並べて、いつもの小さなテーブルに置いた。

手を合わせて、いただきます。

一口、口に入れて噛むと、肉は驚くほどやわらかくて、じんわり甘くて――。

最初の頃は生肉に抵抗があって。
それでも、周防さんに勧められて恐る恐る食べた時。
やはり味があることは、何にも代えがたい喜びだと、知った。
とはいえ、もう人の味覚ではないからタレにも付けず、そのまま食べているけど。

「……美味しいですよね。さすが熊本産です」

ぽろっと出た言葉に、周防さんが一瞬だけ、箸を止めた。
これも周防さんが熊本から直接取り寄せてくれてると、教えてくれたこと、だから。

周防さんには、シンプルなゴマ油と塩を混ぜたもの。
それを、少しだけ付けて。
ゆっくり、味わうように咀嚼する。

「…………っ、」

そして、そのまま動きも止まってしまう。

何か考えてる。
たぶん、何か……心に引っかかったんだ。
私は、静かに彼を見つめる。

「……エネルギーを摂るだけのもののはず、なのに。これは……」

「美味しいですか?」

「ああ、美味しい」

小さく呟いた声に、私は自然に返していた。

「それは……一緒に食べたから、ですね」

言ってから少し恥ずかしくなって視線を逸らしたけど、でも、本当のことだった。
一緒に食べるって、栄養以外の何かが、ちゃんとある。
これは受け売りなんかじゃなく、身を持って体験しことだった。
家族が増えてから、得たひとつの真理。
食卓を囲んで、同じものを身体に取り入れる。
そこにしかない、大切な存在に。

その言葉を聞いた周防さんは、わずかに目を伏せたあと、低く――でも穏やかに言った。

「……悪くない」

たったそれだけの返事なのに、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。

私たちは、もう一度箸を動かす。
同じ皿を、同じ速度で、同じものを食べながら、同じ時間を過ごしている。

相変わらず。
出会ったころや、渚さんに見せる気さくなお兄さんの姿も。
冷徹に美波さんや渚さん親子の心を変えてしまう姿も。
今みたいに、必要最低限の出力しかしない、省エネモードみたいな姿も。
どれが本当なのかは、分からないけど。

一緒に同じものを食べる。
ただそれだけのことなのに、不思議と満たされていった。

でも──やっぱり、ちょっとだけ不安になる。
この時間が心地よくて、だからこそ、どこかで「罠」なんじゃないかって思ってしまう。

私の心に根付いてしまった、“慣れ”みたいなもの。
与えられたものには、代償がついてくる。
優しさには裏がある。
そういう生活を、共にしていたから。

周防さんがくれる「悪くない」のひとことすら、胸の中で何度も何度も反芻してしまう。

何も言わずに、しばらく箸を動かしていた。
肉の温度が、ちょうど良い具合に常温に近づいて、舌の上にのせると、ふわりと香りが広がる。
口の中に残る甘みと、薄い鉄のような味。

「……次は、タテガミも取り寄せようか」

不意に、周防さんが呟いた。
意識がふっと浮かび上がる。

「……タテガミ?」

「首筋の脂肪が多い部位だ。赤身と一緒に食べると、味にコントラストが生まれる、らしい」

「じゃあ、次はその“コントラスト”も、体験してみたいです」

そう言うと、彼はほんの一瞬だけ、口の端をわずかに持ち上げた気がした。
それが、笑ったのかどうかは、わからない。
でも、そうだとしたら──堪らなく嬉しいから。

そっと、胸に手を当てる。
居場所を確かめるように、静かに深呼吸する。

この人は、私に何かを与えるためにここにいるんじゃない。
観察するためであり、鬼を研究するため。
それに、もしかしたら、今日の“良い顔”も、明日には消えてしまうかもしれない。

性懲りもなく、まだ信じたいと思ってしまう。
今の姿はきっと笑顔なのだ、と。

食卓の上に、空の皿が並んでいる。

「……ごちそうさまでした」

自然と声が出た私に、周防さんも少し遅れて、声を重ねた。

「ごちそうさま」

たったそれだけなのに、胸の中にふわっと、火が灯るようなあたたかさが広がっていく。

食べ物の味は、きっと、誰と食べたかで変わる。
そして、少しだけ、元気と温もりをもらえた気がした。





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最終更新:2025年08月16日 23:36