時計は午後6時を指している。
つい最近までならまだ明るい時間帯だった。
私は電気をつける気力もない。
薄暮が部屋の隅々まで浸していた。

壁の時計の針が動く音すら、いつもより小さく感じる。
私はベッドの上で膝を抱え、部屋の薄暗がりに身を沈めていた。
毛布のぬくもりはあるのに、背中にじわじわと冷えが這ってくる。

さっきから、ぼんやりと考えているのは──昨晩の夕食こと。

周防さんが言った、一言。
「悪くない」──その言葉が、ずっと、頭から離れなかった。

ただの社交辞令でも、気まぐれでもよかった。
なのに私は、それを信じたいと思ってしまった。

(……馬鹿みたい)

かすかに笑った唇は、すぐに消える。
自嘲にもならない。むしろ、情けない。

彼は、私を拘束している張本人だ。
最初は守ってもらってる、と浮かれていた。
自由もある程度、認められていた。

でも、今は違う。
この状況は誰が見ても監禁だと、言うだろう。
それでも、「あのときだけは違った」と、心のどこかが叫んでいる。
髪にされた口づけも、腕の温もりも……信じちゃ駄目なのに。

それなのに──私はずっとサンストーンを握りしめてる。
渡せないままずっと手元にある、プレゼント。
ショッピングモールの時は、本当に楽しかった。
周防さんと無邪気に冗談を言い合えてた、きらきらした思い出まで幻にしたくなかった。

電気もつけず、カーテンも閉じたままの部屋は、まるで時間が止まったように静かだ。
そのときだった。

──ドン。

背筋が凍った。
窓の方で、何かが結界にぶつかったような、鈍い音が響いた。

(今の……何?)

耳を澄ます。
何も聞こえない。……いや、聞こえる。

──コン、コン、

今度は、明らかに連続した窓を叩くような異音。
壁際のカーテンが、ほんのわずかに揺れていた。

喉が渇く。
動けない。足が、布団に縫い留められたみたいに重い。

(周防さんは、まだ午後の診療のはず)

嫌な予感が胸を締め付ける。


そして──

パリン!

渇いた破裂音のようなガラスの割れる短い音。
そんなに大きな音でないのが、逆に不気味だった。
空き巣のようなプロの犯行だと、テープなどで大きな音を出にくくさせると聞いたことがある。
私は、グッと悲鳴を飲み込んだ。

硝子窓が、ガラガラと開ける音を立てる。
すると、ピンクのカーテンが風に大きく揺れた。

(あっ……!)

月明かりの中、何かが、否、誰かが、部屋に転がり込んできた。
男。

荒く息をつきながら立ち上がったその男は、こちらを一瞥した。
獣のような目をしていた。
でも、どこか妙に、人間の熱があった。

「お前が、愛菜だったな」
そう言った。

──男の人の声。はじめて聞く声。
なのにその名を、まっすぐに呼ばれたことに、身体が反応してしまった。

「春樹坊ちゃんに頼まれてな。迎えに来た」

何を言ってるのか、すぐには理解できなかった。
でも彼は、迷いなくポケットから何かを取り出し、それをこちらに放り投げた。

紙──いや、手紙だった。

私は、それを震える手で拾い上げた。


《姉さん
周防さんのところにいるって聞いた。
……あの人、やっぱり危ないと思う。
熊谷裕也さんって人が迎えに行くはずだから。
信じていい人だから、ついて行って。
会えるの、楽しみにしてるよ。 春樹》

視界がにじんだ。

春樹。
筆跡を見て確信する。
手紙だけで、久しぶりに会えた気さえしてくる。
心配してくれていた。ずっと。

(ここから……逃げられる?)

心のどこかが、希望で明るくなった。
でも、同時に──重たい何かが、胸の底に沈んでいく。

(……逃げていいの?)

周防さんのことが、頭から離れなかった。
私を精神的に追い詰めていった張本人。
疲弊して、最近は考えることさえしなくなっていた。
それでも、どこかで私は、「ひとりぼっちになったあの人」を、想像する。
すると、胸の奥が軋むように痛む

あの目。
あの背中。
最近、少しだけ、私に見せてくれる油断した顔。

(私がいなくなったら、あの人は──また、一人に……)

気づけば、言葉が漏れていた。

「行けない……」

自分すら予想していなかった言葉。
否定の声が口から付いて出ていたのだった。


男──熊谷さんは、露骨に顔をしかめた。

「ぐずぐずするな」

強引に、腕を掴まれる。

「いや……っ」

私は抵抗した。
でも彼の力は強くて、身体が引きずられそうになる。

「やめてって、ば……!」

もみ合いの中で、どこかで空気が変わった。
空間の温度が一気に冷たくなったような、肌に刺さるような違和感。

熊谷さんが、何かに気づいたように、急に動きを止める。

「……なんだ?」

私は、彼の視線を追って、部屋の隅に目を向けた。

そこに──いた。

暗がりに、ゆらりと浮かぶ、「黒い影」。
ただの影じゃない。
それは、動いていた。
呼吸するように、意思をもって。
這いずる、霞のような、ススのような曖昧で大きな塊。

足元が震える。
血の気が引いていくのが、はっきりわかる。

──見覚えがあった。
一郎くんたちから、聞かされたことがある。
“それ”のことを。

(まさか……)

私は唇を震わせながら、その名前を呟いた。
祈るように。
怯えるように。
正体不明のそれに向かって。

「……ファントム……」

熊谷さんも何か言いかけていた。
まるで見知ったもののように。
私と同じ、視線の先を見据えて。

(ファントムが見える、ということは)

この人も、やっぱり能力者──。

その禍々しい黒い影が、こちらを捉えた気がした。
すると、真っ直ぐ私たち目がけて一気に滑るように突進してきた。




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最終更新:2025年08月09日 13:10