その禍々しい黒い影が、こちらを捉えた──そんな確信が背筋を這い上がった瞬間だった。
まるで狙いを定める捕食者のように、影は空気を裂くようにして一直線に突進してきた。

「クソッ!」

熊谷さんが低く唸るように呟いた。
直後、彼の掌からふわりと小さな風が巻き起こる。
室内の空気がひときわ鋭く震え、机の上の古文の教科書が、バラバラと荒れ狂うようにページをめくった。

(な、何……いまの……?)

風はそのまま螺旋を描いて渦を巻き、一瞬で塊となる。
意志を宿したかのように、それは黒い影へと猛然と飛んでいった。

──パァンッ!

乾いた破裂音。
空気そのものが弾け飛ぶような衝撃。
耳の奥が一瞬キーンと鳴った。
気づけば、ファントムはその場から消えていた。

息を呑む間もなく、室内の空気が再び重たく沈んだ。

「結界破りで出るようセットされてたか……厄介だな。おい、小娘。外に出るぞ」

「な、なぜですか……?」

声が震える。
鼓動が早すぎて、自分の心臓がうるさく感じる。
頭がついていかない。
身体が固まって、動けなかった。

「戦闘になりゃ、屋内だと物を巻き込んじまう。ケガがイヤならついてこい!」

熊谷さんはすでに行動に移っていた。
バールを振り上げ、窓ガラスを思い切り叩き割る。

ガシャァン──!

鋭い硝子の破片が飛び散り、床に降り注ぐ。
割れた破片に月の光が反射し、まるで何かの警告灯のようにきらめいた。

「小娘も来い! スリッパは絶対脱ぐなよ、足ケガしたくなけりゃな!」

「……はい!」

恐怖と混乱の渦の中で、思考よりも先に口が返事をしていた。
身体が命令を待たずに反応する。

スリッパのまま窓枠に足をかける。
胸の奥を強く押し出すような冷気とともに、私は飛び降りた。

着地した瞬間。
膝が一瞬沈み込み、足元がぐらつく。
そしてすぐに熊谷さんの声が響く。

「逃げるぞ! あの車まで走れ!」

指差す先には黒いセダン。
不釣り合いなほどイカついエアロパーツに、やたらと低い車高。
明らかに目立つ車だった。

けれど──

「待って……下さい。私、逃げたくない……」

胸が締め付けられるような感情が、喉の奥からこぼれた。
足が止まる。
なぜ止めたのか、自分でも分からなかった。

「何言ってんだ、お前、アイツの正体に気づいてんだろ!」

熊谷さんが私の手首を掴む。
無造作だけど、どこか優しさを残した力で。

「アイツって……周防さんですか」

「当たり前だろ。あの野郎はもう何したってムダだ。どうして分からない!」

“あの野郎”
“正体”
“ムダ”

言葉がナイフのように突き刺さる。
その鋭利さに、心の奥の「分かってる」が削り出される。

(分かりたくない……でも……分かってる……)

「イイから、早くしろ!」

「やめて……いや!……!」

身体ごと引き寄せられ、抵抗する間もなく、私は抱きかかえるようにして車へと連れていかれる。

「後部座席で大人しくしてろ。説明はあとでじっくりしてやるから」

バタン──
ドアが重々しく閉められ、密閉された車内に取り残される。

冷たいレザーシート。
閉ざされた空間。
外の空気が、まるで別世界のものに感じられた。

運転席に滑り込む熊谷さんがキーを回す──

──ベチャッ。

フロントガラスに、ぬるりと黒いものが貼り付いた。
人の形に似ていて、けれど人ではない。
禍々しい影──ファントムが、再び姿を現す。

「クソが! 仕方ねえな、お前はこの車で待機してろ。あと、そのバッグも守ってろ」

バシン、とハイビームが点灯する。
熊谷さんが再び車外へ飛び出す。

私は、ただ、そこにいた。
何もできず、荒い息だけが肺を出入りする。

座席の横──長方形のバッグ。
それが視界に入る。
無意識に、手が伸びていた。

ジッパーを静かに引く。
冷気がふっと漏れる。

中には、冷却パック。
そして、その上に乗せられた、真空パックに詰められた黄色っぽい液体。

(……これ……私の……)

周防さんが、あの日、私の腕に針を刺したとき。
そのときに採られた──私の血。

(なんのために……こんな……)

もう理由は想像できる。したくなかったけど、理解してしまっている自分がいる。

そのときだった。

バン、と勢いよく熊谷さんが運転席に戻ってくる。

「ファントムは……?」

「蹴散らした。だが、猶予はない、発進するぞ!」

アクセルを踏み込みかけた、そのとき。

──私の身体が、勝手に動いた。

いや、“動かされた”と言った方が正しい。

視界が狭まり、耳鳴りがする。
まるで、自分の意識が身体の奥に引きずり込まれていくようだった。

「ぐっ……!」

次の瞬間、私は熊谷さんの首に両腕を回していた。
まるで、背骨の奥に細い針金を通され、その先を誰かに引かれているみたいだった。
手も、足も、私の意思を無視して動く。
指先から、冷たい糸が這い上がり、肘から肩へ、そして首の付け根まで絡みつく感覚。
その糸の先は──間違いなく、あの人だ。

「な、何……。私、身体が勝手に……!」

「判ってる、アイツのやりそうな卑怯な手だってことくらい……!」

熊谷さんが苦悶の表情を浮かべながら、私の腕を引き剥がそうとする。
けれど、私は止められない。いや、止まりたくても止まらない。

「いや……やめて……っ!お願い……!」

言葉は出るのに、筋肉が反応しない。
喉が焼けるように痛い。
腕が自分のものではないみたいに、締め付ける。

そのとき──

──カシャン。

唐突に、ロック解除音。

そして、運転席のドアが音もなく開いた。

冷気とともに、顔を覗かせたのは──
周防さんだった。

「ありがとう。愛菜ちゃん、助かった」

その声は、どこまでも静かだった。
無機質で平坦。
けれど、確かに聞き覚えのある、低く柔らかな声。

ただの声なのに、全身の血が凍るようだった。


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最終更新:2025年08月09日 13:13