緊張の中で、ロック解除音が車内に響いた。
耳の奥で、乾いた金属音が爪を立てるように刺さる。
運転席のドアが、きしみ一つなく静かに開く。
その隙間から、夜気が流れ込み、肺の奥まで凍らせていく。
覗き込んできたのは──周防さんだった。
「ありがとう。愛菜ちゃん、助かった」
その声が、心臓を素手で掴むように冷たく、重かった。
次の瞬間。
私の腕の力がふっと抜け、代わりに周防さんの腕が熊谷さんの胸倉を掴む。
抵抗の余地もなく、裕也さんの身体が車外へ引きずり出され、アスファルトに叩きつけられた。
「愛菜ちゃんは車にいるんだ。分かったね?」
「……はい」
うなずくしか、なかった。
その声には、有無を言わせない重みがあったから。
外では熊谷さんが、膝をつきながら息を荒げていた。
女の私の力とはいえ、首を絞められた苦しさは容易に想像できる。
それでも彼は顔を上げ、睨みつけるように立ち上がる。
「テメー……相変わらずイケ好かねぇ顔しやがって」
「久しぶりだな、熊谷。毎度毎度、飽きもせず突っかかってくるよな? 暇人か?」
周防さんの笑顔は、軽口にも見えるし、昔の友人に向ける懐かしさにも見えた。
けれど、その奥に揺らめくのは鋭い刃のような冷たさだ。
「ケッ……昔は多少なり可愛げもあったが、変わっちまってからのテメーはダメだ」
「十代の頃、アメリカで一緒に暮らしてた時のことか……懐かしいな」
目を細め、周防さんは当時に思いを馳せているようだった。
(アメリカ……。あっ、……)
以前見せてもらった、周防さんの過去の走馬灯。
あの記憶に映った勝ち気そうな少年と裕也さんが重なる。
(アメリカ……空港。あの走馬灯で見た少年……)
記憶の断片が繋がり、胸の奥がざわつく。
二人はかつて仲間だったのだ。
だけど、その関係はもう──。
「テメーの見え透いたパフォーマンスなんてお見通しなんだよ!」
「そんなこと言うなって。俺たちは友達じゃないか?」
一瞬、周防さんが悲しげに目を伏せる。
だが、その感情が本物かどうか、私には判別できない。
「何人、そうやって騙してきた……!」
「騙した覚えはないが?」
「テメーの性根が腐ってるんだ!この、裏切り者が!」
「腐る……。腐敗、劣化、いたむ、朽ちる。該当しないな……」
「今のお前に判るかよ! 人の皮を被った化け物め!」
熊谷さんが、腰を沈めて気を放つ。
刹那、空気が唸りを上げて風の渦となり、周防さんへ襲いかかった。
──パシッ。
乾いた破裂音とともに、風が霧散する。
その前に立ちはだかったのは、周防さんと同じくらいの背格好の黒い影。
「Trace to the phantom… complete. Coordinate correction. Mirror mode, activate.」
周防さんの呟く英語の響きが、耳に不気味に残る。
影がゆらりと揺れ、次の瞬間、同じ風の渦を生成して裕也さんへ放った。
「ぐっ……!」
防御した熊谷さんの腕に、砂と小石が叩きつけられる。
まるで、自分自身の攻撃を食らっているようだった。
「あの風の能力は……熊谷さんそっくり……」
「ミラーリングだよ。奴は今、自分自身と戦っている」
(………っ!)
突然だった。
戦っていたはずの周防さんが、私のすぐ横に立っていた。
まるで、観劇の客のように冷静に言う。
その声は、戦況を楽しんでいるようですらあった。
「そんな……やめて下さい、こんなの……!」
「ファントムは俺の霊気が続く限り、消えることはない。ここは霊脈が通る場所。確か……美波から教わっていたかな?」
美波さんの名前が出ると、周防さんの声のトーンが一段下がる。
まるで、私を脅すように。
「ほら、熊谷がまた倒れた。あのまま戦闘が続けば……奴はどうなるだろう……」
(多分、無事では済まない)
彼の視線の先では、熊谷さんが徐々に押されていた。
最初は互角だった攻防が、一方的に崩れていく。
熊谷さんは私を救い出すために戦ってくれてる。
でも、敵の周防さんはその戦いにすら参加してない。
「あいつも高村に連なる者だが……所詮は遠縁。血が薄くなりすぎてしまっているね」
周防さんは残念そうに肩を落としている。
最初は熊谷さんの優勢だった戦いだった。
それが、体力差でかなり不利になってきている。
「もう、やめて。熊谷さんが……」
影に吹き飛ばされて、地面に倒れ込んでしまう。
それでも、力を足に込めて、なんとか立ち上がっていた。
「愛菜ちゃんが心をもて遊ぶなと怒るから。熊谷は友達だから……俺は奴の心を傷つけない方法を選んだんだよ」
まるで。
虫を殺さなかったから褒めて。
そんな子供の声のように聞こえた。
「やめて下さい。こんな、一方的すぎる……」
「もう外に出ようとしない、と誓えば、すぐ止めよう。変化のない生活を望む、と」
喉が焼けつくほど乾き、言葉が出ない。
それでも、震える声で絞り出した。
「……外に出たいと言いません。変化のない生活を……望みます」
「よく言えた。それでいいんだ、愛菜ちゃん」
助手席のドアが開かれ、差し出された手。
その冷え切った手を取るしかなかった。
車内には、血液パックの入ったバッグは残されたまま。
その中に閉じ込めた、私の想い。
サンストーンを通して届くように──
ただ祈ることだけが、最後にできることだった。
最終更新:2025年08月10日 14:41