熊谷さんが私の部屋の窓ガラスを割ってから、もう数日が経った。

穴のあいた窓は段ボールで塞がれた。
ガラス屋さんが来るまで、私は周防さんのベッドを借りて眠っている。
私の部屋も外と同じように、結界で閉ざされてしまった。

その代わり、周防さんは診察室のベッドで寝起きする生活に切り替えた。
最近、匂いに敏感になったせいか、彼の私生活そのものである部屋やベッドに身を置くたび、胸の奥がざわつき、眠れない夜が続く。

この胸の苦しみがどこから来るのか。
考え出すと堂々巡りになりそうで、意識を別のことに向けた。

(熊谷さん……本当に無事なんだろうか)

何度も同じ質問をしては、同じ答えをもらった。
「無事だ。ケガも大したことはない」というたびに、周防さんはわずかに表情を曇らせる。

外に出ることは諦めた。
だから、もう熊谷さんや美波さんの無事を、この目で確かめる術はない。

変化のない、単調な日々。
それでも、ベッドや部屋を貸してくれること。
毎日交わす挨拶の温度が、冷酷な彼の輪郭をやわらげていた。

──けれど、今朝は違っていた。

珍しく周防さんが慌ただしく支度をしていたのだ。
リビングの空気が、張りつめた糸のように硬くなる。

「お出かけですか?」

「ああ、少し揉め事があったらしい」

「揉め事……誰のですか?」

「反主流に属している者同士で仲違いがあった。俺が行かないと収集がつかないようだ」

ジャケットを羽織り、車の鍵を手に取る。

「反主流派……ケンカみたいな?」

「烏合の衆だ。そういうこともある」

SUVが低く唸るようなエンジン音を響かせ、遠ざかっていく。

(烏合の衆……)

もっと強固な組織だと思っていたけれど、そうでもないのかもしれない。
美波さんは高村総合病院に勤めながら、この診療所を手伝っている。
どちらかに強く属しているなら、そんな器用な真似はできないはずだ。

(あの血液は……)

熊谷裕也さんは春樹の知り合い。
手紙に「信用していい」と書くほどの間柄。
春樹は主流派の父のもとへ行った。
……なら、熊谷さんは主流派の可能性が高い。

(血液パックは……主流派に渡っていた?)

胸の奥で渦を巻く疑問を抱えたまま、窓際へと歩く。

秋はさらに深まり、ススキの穂が白い綿毛を放っている。
風に乗った種子が光を抱いて舞い、空気の中に細やかな輝きを散らしていた。
まるで初雪が海へ向かって降りていくようだ。
潮の香りも、風の冷たさも感じられない──結界の内側の空気は、ひどく乾いている。

(あれ……)

一本道の先に、一台の車が近づいてくる。
見覚えのあるシルバーの軽自動車──渚さんのお母さんの車だ。

駐車場に滑り込むように停まり、運転席から彼女が降りる。
そして、その後ろから──

制服のブレザー。
長身で、無駄のない均整の取れた体つき。
整った肩のラインと足取りは確かに強さを感じさせるのに、まとう空気はどこか儚い。

光を反射したススキの綿毛が、その肩越しにふわりと落ちる。
秋の景色の中で、彼だけが輪郭を持って浮かび上がって見えた。

「……冬馬先輩」

名前を呼んだ瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
驚きでも安堵でもない──ずっと触れずにいた感情が、不意に息を吹き返すような、熱と痛みを孕んだ高鳴りだった。

「愛菜、聞こえますか?」

窓ガラス越しに届いた、少しこもった懐かしい声。

「はい……! 聞こえます!」

「これから結界を破ります。同時にファントムも殲滅するので、外には出ないで下さい」

「分かりました!」

手を高く掲げた合図とともに、渚さんのお母さんが遠くに避難する。

──その瞬間。

穏やかな海が、蛇のように細長くせり上がった。

ゴゴォォォォ──!!

水の巨体が空を覆い、陽光を乱反射させながら診療所へと降り注ぐ。
水圧で壁が震え、床下から地鳴りのような低音が伝わってくる。
あまりの迫力に、私は思わず尻もちをついた。

バキンッ!

キッチンの奥で何かが折れ、勝手口のL字がもぎ取られているのが見えた。

「愛菜、これで外に出られるはずです」

息一つ乱さない声。
取っ手の無くなったドアが押し開かれ、靴のまま冬馬先輩が静かに入ってくる。
──その姿は、海から切り出された彫像のように冴えて見えたのだった。



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最終更新:2025年08月16日 23:48