冬馬先輩に手を引かれ、勝手口だった場所から足を踏み出す。
「……ま、眩しい」
外の光が一気に目に飛び込み、視界が白く霞んだ。
瞬きを繰り返す。
ぼんやりと輪郭が少しずつ戻ってくる。
潮の香りが胸いっぱいに広がり頬を撫でる風はひやりと冷たい。
夏の熱を払い落とす秋の風だ。
「あ、愛菜……さん?」
控えめで、どこか不安を含んだ声。
振り向くと、そこに渚さんのお母さんが立っていた。
「……渚さんの、お母さん」
思わず息を飲む。
周防さんに記憶を消されたはずの彼女。
その人が迷いのない視線で私を見ているから。
「やっぱり……愛菜さんですよね」
「……あの、記憶、戻ったんですか?」
喜びと不安がないまぜになった言葉。
自然と声色に慎重さが混じってしまう。
「いいえ。でも分かるんです」
「え……?」
頭の中になぜ? が浮かぶ。
確かに、渚さん親子は周防さんから記憶を消されたから。
「私、日記をつけていて。そこにあなたのことが何度も書かれていました」
(日記……)
そうだ。
記憶を奪われても、文字までは消せない。
そのささやかな記録が周防さんの能力に打ち勝った。
その事実に胸の奥がじんわりと温かくなる。
完全にひとりぼっちだと諦めていた心に、小さな火が灯った。
「彼女から僕に連絡があったんです。それで車をお願いしました」
冬馬先輩が横で静かに説明する。
「でも……前に聞いたとき冬馬先輩のことはあまり知らないって……」
春樹が家を出て行った日。
車でここまで送り届けてもらった。
その時、会ったことは無い、とはっきり言っていた。
「日記には……御門さんの名を尋ねた時の愛菜さんの言葉には、親しさが滲んでいる――そう書かれていましたから」
偶然の会話。
それを記録してくれた人がいた。
その小さな積み重ねが巡り巡ってこうして会えた。
世界はまだ完全に閉ざされてはいなかったのだ。
「施設出身だった、この方が記憶を消されたかもしれないと僕に相談してくれました。……あと、これを」
冬馬先輩が一歩近づく。
ポケットから革紐で結ばれたオレンジ色の石を取り出し私の手のひらにそっと乗せた。
「……サンストーン……!」
内部に光を閉じ込めたようにきらめく私の宝物。
失われたはずのあのショッピングモールの楽しかった記憶が鮮やかに蘇る。
「どうしてこれが……?」
「熊谷裕也という男から託されました。……しかし本当の送り主は春樹さんです」
(春樹……!)
その名前を聞いただけで、胸がきゅっと縮む。
彼は無事なんだ。そして私のことを忘れずにいてくれた。
「春樹は……春樹はどこにいるんですか?」
声が上擦る。
今一番聞きたい問い。
しかし、冬馬先輩はその問いには答えなかった。
代わりに口を開いたのは、渚さんのお母さんだった。
「……その話は後にしましょう。愛菜さん、今はまずここから離れることが先決ですよ」
有無を言わせない、確かな優しさを持った大人の声。
その声に私はこくりと頷くことしかできなかった。
「今日、僕たちが来たのは──反主流派の仲間に一芝居打ってもらったからです。周防はその後始末のため、しばらく戻りません。……だから、今しかない」
秋の風が彼の言葉を乗せて遠くへ運んでいく。
それは自由の匂いがする風だった。
「周防先生は私だけでなく娘の記憶まで消しました。……それは許されるものではない。だから、御門さんを頼ったんです」
渚さんの母の静かでも、燃えるような決意の言葉。
そして、冬馬先輩。
熊谷さんと春樹。
私には沢山の味方がいる。
その事実が前を向く力を与えてくれる。
「まず、契約を。周防に奪われたものを取り返すのです」
冬馬先輩は私の手を取り、契約の印である痣に触れた。
そのまま跪き、手の甲に唇を落とす。
すると、心の中にぽっかり空いていた隙間が一気に埋まる感覚。
無くなっていたものが再び入り込んでくる感覚に包まれたのだった。
最終更新:2025年08月10日 18:52