渚さんのお母さんが運転席に乗り込み、キーを回そうとした、その瞬間――
助手席の冬馬先輩が短く呼び止めた。
「……待ってください」
低く、しかし鋭く通る声。
その一言に、渚さんのお母さんは息をのんで手を止めた。
窓の外では、すすきが風に揺れ、金色の穂がざわりと震えている。
どこか遠くで波が崩れる音がした。
「今、僕たちがここを離れるのは危険かもしれません。あなたの娘さんにも、危険が及ぶ可能性があります」
淡々と告げられた言葉に、渚さんのお母さんの顔から血の気が引いていく。
後部座席から見える指先は、ハンドルを掴んだまま微かに震えていた。
「……冬馬先輩。どういうことですか?」
「周防は今、不在です。けれど、それは永遠じゃない。結界を解いた時点で、すでに気づかれているかもしれない」
その響きは、冷たい潮風のように胸に入り込み、私の心をじわりと締めつけた。
視線を外にやると、雲間から差し込む秋の光が、海面に銀色の帯を描いている。
(……逃げても、追いつかれる)
周防さんの執着を、私は知っている。
あの人は、獲物を見つけたら、どこまでも追ってくるに違いない――。
だからこそ、海辺を吹き抜ける風のように思考が揺れ、やがて一つの答えにたどり着く。
「……無闇に逃げるより、僕たちは、ここで対策を考えるべきです」
冬馬先輩の提案に、渚さんのお母さんは唇を噛み、秋の光の中で深く息を吐いた。
母としての恐怖と、娘を守る決意――その二つが、瞳の奥で静かにせめぎ合っている。
「わかりました……でも、そもそも……」
ふと眉をひそめ、彼女は私をまっすぐに見た。
「なぜ、周防先生は、私と渚の記憶を……愛菜さんの記憶を忘れさせたんでしょうか?」
車内の空気が、わずかに重くなる。
波の音さえ、遠くに引いていったように感じられた。
「それは……」
喉の奥で言葉が重く揺れる。
サンストーンの温もりが、手のひらにじんわりと広がる。
少し空いたガラス窓から秋風が車内に忍び込み、窓際の髪をさらりと揺らした。
「多分……私が怖がりだからです」
初めて、自分の胸の内をさらけ出した瞬間だった。
言ったあと、胸の奥がひどく空っぽになった気がした。
「怖がり? どういう意味ですか?」
不思議そうに、渚さんのお母さんが問いかける。
「私は、変化がとても怖いんです。それは……多分、生みの母が出て行った日から続く、呪いのようなもので」
唇が震える。
その弱さが、今回の事態を招いた――そう理解しているからこそ、苦しい。
「愛菜……」
冬馬先輩の、心配を含んだ声がそっと落ちてくる。
「冬馬先輩、大丈夫だから……。多分、周防さんは……変化を嫌う私の。その望みを体現しようとしているんだと思います」
「待って下さい。私たちは……愛菜さんに危害を加えたりするつもりは少しも……」
渚さんのお母さんは、何かを言いかけて言葉を詰まらせた。
その瞳に浮かんだ戸惑いと同情が、私の胸をさらに締めつける。
「わかってます。でも、周防さんにとって渚さん達は変化。だから、日常を脅かすノイズだと……そう言っていました」
沈黙が落ちた。
外ではカモメが鳴き、低い雲が海の向こうへ流れていく。
その時――
冬馬先輩がゆっくりと首にかけた鎖を外し、金色のロケットを取り出した。
それを手のひらに乗せて、私に差し出す。
「この方は……愛菜さんの母親。そして、母親のいない僕にとっての、たった一人の今は亡き『お母さん』です」
彼が蓋を開けると、小さな笑顔がそこにあった。
懐かしい、あの人の笑顔――胸の奥にしまい込んでいた温もりが、一気にあふれ出す。
「お母さん……!」
こらえきれず、涙が頬を伝った。
あの日、義母を心配させたくなくて処分した写真。
それでも、心のどこかではわかっていた――もう、会えないのだと。
(でも……認めたくなかった)
「この方は……大堂先生……!」
「えっ、お母さんを知っているんですか……?」
渚さんのお母さんの声に、思わず反応する。
「彼女は能力者の施設でカウンセラーの仕事をしていました。私も何度も相談させてもらいました」
冬馬先輩は渚さんのお母さんの言葉に頷く。
そして、ゆっくり口を開いた。
「隔離施設に入れられていた僕にも、人として生きることを教えてくれた。あの施設で彼女に救われた人は、大勢います」
言葉が終わると、秋の静けさが車内に広がった。
その沈黙の中、彼はロケットを私の手にそっと乗せた。
金色の楕円は、冷たさの奥に不思議な重みを秘めていた。
「愛菜、そのロケットには仕掛けがあります。写真と反対側を開けてみてください」
私は一瞬、彼の目を見た。
そこに迷いと覚悟が同居しているのがわかる。
風が再び吹き抜け、車内の空気をかすかに揺らした。
「……うん」
溝に爪を立てると、カチリと小さな音がした。
掌の中から現れたのは、南京錠ほどの小さな鍵。
金属の冷たさが、じわりと肌に染み込む。
「冬馬先輩……この鍵は?」
「僕の秘密であり、周防の秘密を暴く唯一の手段です」
彼は深く息を吸い、真剣な眼差しを私に向けた。
「もしも、愛菜に確認する勇気があるのなら……この鍵を、丘の上の小屋で試してみてください」
その言葉が落ちるまで、秋風がすすきを揺らす音だけが響いていた。
私は無言でうなずき、その小さな金属を強く握りしめたのだった。
最終更新:2025年09月13日 04:49