車内の空気は、鉛のように重く沈んでいた。
渚さんのお母さんは、息をひそめて私たちの様子を見守っている。

「この鍵は……丘の小屋の南京錠です」

冬馬先輩が、低く抑えた声で呟いた。
その声音は静かだが、底にかすかな苦みが混じっている。

「冬馬先輩と周防さんの……秘密……」

「はい。この鍵は、周防が僕にくれた物です。お前に必要だから、と」

いつもの無表情。
けれど、ほんのわずかに視線が揺れた。
迷いか。
それとも恐怖かは分からない。

「でも……僕は、未だにこれを自分から開ける勇気はない」

ポツリと零した声に、逡巡が滲む。
強く冷静な“巫女の剣”としての顔ではなく、ただの迷いを抱えた高校生の横顔がそこにあった。

「周防は僕を引き取り、後見人になってくれた恩人です。でも同時に──恐怖の対象でもあります」

(恐怖……)

その一言に、胸がざわつく。
心を覗かれるのは、誰であっても本能的に怯えることだから。

「二年前、周防と一年だけ一緒に暮らしました。でも……温かさや安らぎを感じられず、離れることを決めました」

「私も……保護してもらって、良くしてもらったはずなのに……ずっと苦しくて……」

手のひらには。
冷たい金属の鍵と、サンストーンの滑らかな温もり。
正反対の感触が、私の胸の中の相反する感情をそのまま表しているようだった。

「多分……愛菜が抱えていた感覚と、僕の違和感は同じものです」

(同じ……)

冬馬先輩は高校生なのに、一人暮らし。
少し不自然に思いながらも、彼は誰よりも頼りになる人。
感情の起伏が少ない人だと信じていた。
だけど今は、私と同じ痛みを共有していると分かる。

「そして……この鍵のせいで、周防を軽蔑する自分もいます。だから、このロケットにも一切触れさせませんでした」

(……軽蔑)

何よりも、強い言葉。
そして──お母さんのロケット。
それは冬馬先輩にとって、侵してはならない最後の領域。

「もし周防があの時のままなら……愛菜がこの鍵で暴く真実には、きっと価値があります」

胸の中で絡まりあった糸のような、周防さんへの感情。
──恐怖、憧れ、尊敬、疑念。
こんな風に、一人に対して多層の感情を抱いたことはなかったから。

「……私、行きます」

そう告げると、冬馬先輩は頷いた。

「僕はここで待ちます。周防が戻ったときのために。渚さんのお母さんもここに。……万が一の時は、この車で逃げてください」

「で、でも愛菜さん、一人じゃ──」

渚さんのお母さんの不安を、冬馬先輩は静かに首を振って制した。

「……あの倉庫に危害を加えるものはありません。それに、愛菜が自分の目で確かめなければ意味がない」

一見冷たい言葉の奥に、確かな信頼が宿っていた。
その温もりが胸を満たす。

「……行ってきます」

私は深く息を吸い、ドアを押し開けた。

秋の空気が頬を刺す。
診療所の裏手へ回ると、夕闇の向こうに、丘の黒いシルエットが浮かび上がっていた。
その頂にある小屋は、まるで墓標のように沈黙している。

枯れ草を踏む音だけが耳に響く。
心臓は早鐘のように鳴り、呼吸がやけに大きく感じられた。

古びた扉の前に立つ。
錆びた南京錠が、冷たく私を拒む。
震える手で鍵を差し込み、ゆっくりと回す。

──カチャリ。

封印が解かれるような、硬くも滑らかな音。

重い扉を押し開けると、湿った空気と埃が押し寄せてきた。
中は闇に沈み、壁を探る指先がスイッチを見つける。

パチン──頼りない橙色の光が部屋を照らす。

そこは簡素な病室だった。
壁際のベッドには、痩せ細った中年の男が天井を見つめている。
その口元には、乾いた笑みが貼りついていた。

(……誰……?)

ヘッドボードのプレートが目に入る。

『患者名 御門 和夫 様』

「……ミカド……?」

冬馬先輩の名字──そして、彼が言った「僕と周防の秘密」が脳裏に甦る。

──父親。

言葉にならない息が漏れた。
彼は虚ろな瞳で天井を見つめ、私の存在にも気づかない。
廃人。
あまりに痛々しい姿に、ただ立ち尽くす。

「……見てしまったんだね、愛菜ちゃん」

背後からあまりにも優しく、絶望的に穏やかな声が落ちてきた。
その響きに、背中が一気に冷たくなる。
振り向かなくても分かる。
何度も、私の名を呼んできた声、だから。

「……周防、さん……」

ゆっくりと振り返る。

扉の陰から現れた夕闇を纏った人影。
細く長い指が、片手に握った黒革の手袋を無造作に弄んでいた。
光の少ない部屋の中で、彼の瞳だけが淡く光を帯びている。
でも、感情の底を決して覗けない。

微笑とも無表情ともつかない、薄い口元。
まるで慈愛と冷徹を一つに溶かし込んだような──そんな、得体の知れない気配。

一歩、また一歩と近づく足音が、乾いた床板を踏み鳴らす。
そのたびに、肺の奥がきしむように苦しくなる。

まるで獲物を確実に仕留めるための距離感を計っているかのようだった。

「……愛菜ちゃん」

呼びかけは、耳の奥に残る余韻まで柔らかい。
それでいて抗いがたい、強い力を孕んでいたのだった。




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最終更新:2025年08月13日 15:50