まるで獲物を確実に仕留めるための距離感を計っているかのようだった。

「……愛菜ちゃん」

その呼びかけは、耳の奥に残る余韻まで柔らかい。
けれど、その柔らかさの奥に潜む力は、首筋をつかまれたように抗えない。

「周防さん、この人は……冬馬先輩のお父さんがなぜ倉庫に?」

「これは俺の患者だからな」

「なら、なぜ……私に黙っていたんですか?」

約束を破ってツユクサを再び摘んだ時も。
周防さんなりの言い分があるはずだと、どこかで信じたかった。

「余計な心配を増やさないため。君は共感力がとても高いからね」

「冬馬先輩の秘密で、周防さんの秘密だと……そう言われてここまで来ました」

「では推理してもらおうか。冬馬と俺の秘密について」

周防さんは、いつもそうだ。
私を試し、揺さぶり、答えを引き出す。
そのたび、私は期待を裏切ってきた。
だから自信なんて、ほとんどない。

(でも……)

私は顔を上げ、震える唇を開いた。

「以前、冬馬先輩から聞きました。父親には実験動物のような扱いを受けてきたと……父は優秀な研究者だった、とも」

「ほう、それで?」

周防さんの瞳が、面白そうに細められる。
光の粒が一瞬だけその奥に走った。

「この人は以前、地下道で説明してくれた逃亡計画を阻止した能力者の収容施設側の人。つまり、逃亡計画の首謀者だった周防さんにとっては敵、だったと思います」

「この男は高村総合病院の副医院長だった。そして、高村博信の右腕でもあったんだ。正解だよ」

安堵と同時に、喉が渇く。
舌が上顎に貼りつくほどの緊張。

「それで、あの時……美波さんの告発で逃亡計画は失敗し、こよみさんも犠牲になった……そう美波さんから聞きました」

「そうだね。間違いない」

「総合すると……この男性を廃人にできるのは、辺津鏡を持つあなたしかいない。こよみさんと冬馬先輩、そして逃亡計画に関わった能力者のために……あなたがこの人の精神を殺した、と考えました」

自分の言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが重く落ちた。
その仮説が正しいと願う気持ちと、間違っていてほしい気持ちが、せめぎ合う。

「愛菜ちゃんはとても優秀だ。本当に……」

周防さんは伏し目がちに呟く。
次に顔を上げた時、その目の光は変わっていた。

「でも……ひとつだけ。決定的に違うことがある」

「違うこと……?」

「この男を廃人にした動機。それは、能力者のためじゃない」

(能力者のためじゃない……?)

「何の……ためですか?」

「この男はどうしようもない、救いようのない汚れた心を持っていた。だから、浄化した。今、彼の心はどこまでも澄んでいて、凪いだ海のように穏やかだ」

周防さんは、まるで聖母が子を撫でるような手つきで、冬馬先輩の父親の白髪交じりの頭を撫でた。
その仕草が、吐き気がするほど優しかった。

「そんな……傲慢な……」

私の胸に、熱いものと冷たいものが同時に広がる。
信じたくなかった。
彼の行動は、守るためではなく、裁くためだった。
その上から目線の行動に嫌悪が募る。

「傲慢なんて人聞きの悪いことは言わないで欲しい。汚れた心を無垢に戻すことは俺にしかできない。それが神に与えられた辺津鏡の力だ」

(間違ってる……)

力に酔った人間特有の匂い。
それが、私の中で拒絶反応を起こす。

「あなたを……周防さんを心から軽蔑します……」

その瞬間、彼の目からすべての色が消えた。
淡い光も、哀しみも、喜びも。
そこに残ったのは、機械のような無機質な眼差しだけ。

周防さんはゆっくりと腕時計に視線を落とし、芝居がかった仕草で息をつく。

「……ああ、いけない。もうこんな時間か」

その声があまりに平坦で、背骨の奥が凍る。

「愛菜ちゃんの推理に聞き入って、すっかり忘れていた。俺が冬馬に仕掛けた最後の『治療』の時間を」

「治療……?」

「頑なな心を解きほぐすための荒療治だ。午後8時ちょうど、精神構造がリセットされるように時限爆弾を仕掛けておいた」

(精神構造……リセット……?)

「……あと3分だ。無垢で純真な仲良しの親子が出来上がる。喜ばしいことだろう?」

意味を理解した瞬間、心臓が喉を突き破りそうになった。

「そんな……!!」

倉庫の扉へ駆け出す。
冬馬先輩を助けなきゃ。知らせなきゃ。

けれど、ドアノブに触れた手が止まる。
見えない壁が全身を締めつけ、息ができない。

「無駄だよ、愛菜ちゃん」

背後から感情のない声が落ちる。

「罪には制裁が必要だ。君の優しい心が二度と他人に惑わされないように、俺が教育してあげなくては、ね」

絶望が胸を塗りつぶす。
心の中で、最後の力を振り絞り叫んだ。

『冬馬先輩……! 逃げて……!』

その瞬間、冬馬先輩の意識が微かに重なる。
ぼんやりとした視界。

『……愛菜……?』

一瞬、くっきりと繋がって。
そして―――激痛。
左手の甲が灼ける。
皮膚が焦げるような匂いが鼻を刺す。

「あ……ああ……っ!」

三日月の痣が、煙のように消えていく。
私と彼を繋ぐ唯一の証が、跡形もなく。

『冬馬先輩……?』

沈黙だけが返ってきた。
最後の一本の糸が、音もなく断ち切られた。

視界が闇に沈む。
立っているのか、倒れているのかも分からない。
膝の力が抜けて、崩れ落ちる。

(……もう、イヤ……)

その時、闇の底から冷たい声が囁いた。

『……わたしを……望むか?』

甘美で、抗えない響き。
私は迷わず、その誘惑に身を委ねた。





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最終更新:2025年08月15日 07:08