その時、闇の底から冷たい声が囁いた。
『……わたしを……望むか?』
その響きは、氷の刃に蜜を塗ったような甘美さで、耳の奥に染み込んでくる。
私の中に、いつも潜んでいるもう一人の私──鬼が、ゆっくりと目を開けた気配がした。
『もう……たくさん……たすけて……』
かすれる声で縋る私に、闇は笑う。
『心弱き巫女……お前も私を欲するのだな』
その言葉が合図のように、私の意識は暗闇の檻に押し込められた。
外の景色は見えるのに、動かすことも、触れることもできない。
──視界の端、冬馬先輩の父親が虚ろな瞳で壁を見つめている。
その胸の上下はかすかで、まるで人形のように生気がない。
周防さんの手がまだその肩に置かれていることが、何よりも不気味だった。
「久しぶりだな、周防。採血の夜ぶりか」
「ああ。これで良かったんだろ? 鬼よ」
「計画通りだ。ご苦労」
(計画……鬼……)
暗闇の中でも、彼らの声は鮮明に届く。
どうやら、この“もう一人の私”を通じて感覚が共有されているらしい。
それでも、檻の外に出る術は──ない。
「わがまま姫の無理な要求に付き合うのは骨が折れた。もう勘弁してくれ」
周防さんが大げさに両手を挙げる。
まるで、喜劇映画のような滑稽な動作だった。
「ふん、お前から私に声をかけて来たんだ。当然だろう」
鬼の口調は低く、獣の唸りのような響きを含んでいる。
私の喉からその音が漏れていると思うと、背筋が寒くなった。
「春樹に血を渡すために、愛菜ちゃんにはかなり負担をかけてしまったがな」
「結局、覚醒できなかったようだな。やはり、不完全だったか。だが、お前の働きで、この身体の主導権を握れたのなら問題ない」
「……まあ、そうだな。それで、俺もお前さんと契約すれば良かったのか?」
周防さんが、鬼となった私に歩み寄る。
虚ろな冬馬父の横を通り過ぎるとき、肩がわずかに揺れたが、彼の目は焦点を結ばなかった。
「そうだ。より鬼に近づくには封印を解く必要があるからな」
周防さんは私の前で膝をつき、ゆっくりと手を取った。
その感触は私ではなく、鬼のもの──それでも、私の皮膚に熱が伝わってくる。
「先の契約を破棄し、新たに契約す。十種神宝、辺津鏡の名において貴女を守る事をここに誓う。ひとふたみよいつむゆななやここのとおふるえふるえゆらゆらふるえ……」
(うっ……)
鈍い痛みが手の甲に走り、灼けるような痣が浮かび上がる。
それは冬馬先輩との契約の跡が消えた場所に、二つ目の印として刻まれていった。
「これで2つ目だ。これにより、より強い力を行使できる」
鬼は満足げに頷く。
冬馬父の顔に変化はなく、その口元はわずかに開いたまま。
まるで呼吸すら忘れてしまったかのようだ。
「冬馬の分は消えちまったけど、封印的には問題ないのか?」
「ああ。契約を結んだ時点で封印は解かれる。だから問題ない」
「そうか。じゃあ、俺の願いも……」
周防さんが立ち上がり静かに呟く。
そして最後に一度だけベッドに横たわる冬馬父へと目を向けた。
その瞳には何の感情も宿っていなかった。
でも。
その奥の奥にほんの僅かに。
まるで古い道具を処分する前の名残惜しさのような。
そんな冷たい色が浮かんだ気がした。
「まだ巫女としては不完全だが、10年程度なら問題ない。あの日の悲劇をやり直す──それがお前の望みだったな」
(10年前……冬馬先輩の暴走と、逃亡計画の失敗)
結局、私はただ利用されただけ。
周防さんは、こよみさんが一番大切で……死んだ人に、最後まで敵わなかった。
「胡蝶の夢。ようやくだな……」
周防さんが目を伏せる。
冬馬父の呼吸の音だけが、重く、倉庫の空気を満たす。
「感傷的になるのも結構だが、いいのか? 私は気分がいい時でないと人間の言う事を聞く気が起きないんだが」
鬼が周防さんの顎を指先で持ち上げる。
その動作はどこか無骨で、物語で見るような色気はなかった。
「それじゃ頼む。あの日に戻って……二度と大切な者を亡くさないようにする。それが俺の願いだ」
鬼は静かに目を閉じ、空気が震え出す。
私の体が眩く輝き始め、それは霊気となって床や壁を這い、冬馬父の影を歪ませた。
「胡蝶の夢は運命を枝分かれさせるだけ。根本的な解決にはならんぞ」
「それでもいいさ。俺の後悔が解消されるなら、何でも利用する」
「高村の血を最も強く受け継ぐ者……殺したいほど憎いが、その性格は嫌いではない。その願い、叶えてやろう」
霊脈の波動が倉庫を満たし、空気が押し返されるような圧迫感が全身を包む。
冬馬父の髪がわずかに揺れ、閉じた瞼の奥で何かが蠢いた気がした。
「では──戻るがいい」
鬼の身体が神々しい光に包まれる。
その力は嵐のように世界を飲み込んでいった。
(違う。これは救済なんかじゃない)
(ただの自己満足だ。やめて)
(私の力をそんな身勝手な願いのために使わないで……!)
心の檻の中で声にならない最後の抵抗を試みる。
しかしその叫びは誰にも届かない。
ただ白い光の中に虚しく溶けていくだけだった。
最終更新:2025年08月16日 10:18