「では──戻るがいい」
鬼の身体が、神々しいまでの光に包まれる。
それは嵐のように広がり、世界を丸ごと飲み込んでいく。
(違う。これは救済なんかじゃない)
(ただの自己満足だ。やめて)
(私の力をそんな身勝手な願いのために使わないで……!)
心の檻の中で、喉を裂くような叫びをあげる。
けれどその声は、一滴の水が白い炎に落ちて消えるように、何の痕跡も残さなかった。
やがて、眩さは静かに収まり──
(……ここは)
そこは病室だった。
壁に滲む湿り気と消毒液の匂い。
裸電球の淡いオレンジが、私たちの影を床に滲ませる。
ベッドの端には、冬馬先輩のお父さんが座っていた。
虚ろな瞳が、ただこちらを捉えている。
「な、なんだ……! 世界が分岐しない!」
鬼の声が、部屋の空気を裂く。
怒りは瞬時に血を沸騰させ、胸の内側を焼く。
その震えは、私の皮膚にも直接伝わってくる。
(ど、どういうこと……)
「……上手くいったな」
周防さんの低い声。
熱も棘もないその響きが、かえって鬼の怒気を煽る。
氷の刃で頬を撫でられたような、無機質な冷たさ。
「貴様……何をした!」
私の喉からほとばしる怒声──いや、鬼の声。
周防さんはただ、ほんの僅かに口角を上げ、皮肉のような笑みを作った。
「全て俺の予定通り進行した、ということだ」
「……まさか」
鬼の胸に走った戦慄が、心臓を握られたように伝わってくる。
「毎晩、毎晩……体液を注ぐ。それは、メスの身体の中で三日間は生き続ける」
「この……外道が!」
奥歯が軋む音が響き、口の中に生暖かい鉄の味が滲む。
「高村は鬼の系譜……もう、分かるだろう?」
(……何?)
会話の意味を掴めない私を置き去りに、二人の間だけで言葉が交わされる。
「ほとんど人間のはず……そんなもの、過去の話だ!」
「お前が言ったんだ。一番血が濃いと。俺は、それを立証しただけだ」
「鬼のオスの特性……それを利用するために、この者とわたし、両方の記憶を奪い、あざむいていたというのか!」
鬼の声が絶叫に変わる。
喉を痛めるほどの怒りが、熱を持って胸腔に充満する。
「全ては鬼を弱らせるため。胡蝶の夢を無闇に使ったお前が……愚か者ということだ」
周防さんの声は相変わらず低く、波立たない。
その落ち着きが、逆に鬼の憤怒をさらに煽っていく。
「許さんぞ……!!」
身体が勝手に動き、周防さんの首を掴む。
爪は鋭く、氷のように冷えた皮膚を切り裂く感触を持っていた。
「今のお前では鬼火も出せない。俺も殺せない。無駄だ」
「ほざくな、人間風情が! お前の能力ごと奪ってやる!」
鬼が、周防さんから温かな生命の流れを吸い上げ始める。
それは脈動する血潮のようで、同時に魂の欠片のようだった。
(だめ……やめて……!)
その瞬間、周防さんの手が私の手首をがっしりと掴む。
その握力は、確信を持った者だけが持つ硬さだった。
「お前が消えるんだ、鬼……」
精気が逆流する。
その動きは冷水のように鋭く、鬼の内側を切り裂いていく。
その中で。
微かな優しさを含んだ、心に直接響く声。
『愛菜ちゃん……』
『……周防さん』
『これから君の意識と俺の意識を共有させる。君は俺を肯定するか?』
(肯定……)
怖いし、許せない。
だけど──試されてもなお、私を見捨てないのなら。
『……わかりました。私はあなたを……何があっても肯定します』
『では、辺津鏡を共鳴させる。健闘を祈る』
次の瞬間、耳の奥を破るような数え切れない声が、一度に押し寄せてきた。
最終更新:2025年08月18日 06:16