『彼女は帰れる可能性、大』

今は黒く塗りつぶされた文字の下から、和馬のイタズラによるフロッタージュが、木の枝の影のように浮かび上がっていた。

紙の質感に触れる指先が少し震える。
──あの日の冬馬先輩が、まだ私たちに語りかけているようだった。

「春樹。この、彼女って誰だと思う?」

問いかける声が、自分でも驚くほど硬かった。

春樹は腕を組み、眉間に皺を寄せて考え込んでいる。
窓の外から差し込む午後の光が、彼の横顔の輪郭を照らしていた。

「彼女……女性、だけど……この、図が……」

「この図? 枝みたいののこと?」

メモのような紙を少し傾けると、影が枝葉のように揺れて見える。

「ああ。この図はまるで……」

「母さん達、もしかして大事な話してる?」

唐突に和馬の声が割り込んだ。
落書きをした本人が、いたずらが見つかった子供のように不思議そうな顔でこちらを見つめていた。

「この紙、実はお父さんの手紙に入ってたものなんだ。多分、何か大切なメッセージだったんだんじゃないかな?」

「これ、父さんの手紙だったんだ? ごめん、僕……」

和馬の頬から血の気が引いていく。
無邪気な遊び心が、亡き父の遺品を汚してしまったと気づいた瞬間だった。
悪気がないのが分かっている。
安心させようと口を開けかけた時、向かいの春樹が動くのがみえた。

「いや、このフロッタージュがなければ、メッセージの意味すら分からないままだっただろうからな。お手柄だよ、和馬」

春樹がそっと和馬の頭を撫でる。
大きな手に包まれて、細い肩の力が少し抜けていく。

「本当に?」

「ああ。きっと、先輩はメモ帳の上にこの図を書いていたんだと思う。そして、メッセージと図は対だったはずだから。それに気づけたのは大きい」

「先輩? それって父さんのこと?」

和馬の首が小さく傾ぐ。
その仕草に、かつての冬馬先輩の面影が重なって見えた。

「お父さんはね、お母さんとおじさんと高校が同じで先輩だったんだよ?」

「じゃあ、三人とも同じ学校だったんだ?」

素朴な和馬の問いに、春樹が頷く。

「俺が高校1年生の時に姉さんは2年で先輩は3年生だったんだ」

「懐かしいなぁ……冬馬先輩と文化祭の準備したりして……楽しかった……」

思い出がふいに蘇る。
ざわめく校舎の廊下、紙の匂い、誰かの笑い声。
あの時は、冬馬先輩を好きだと自覚したばかりで、些細な言葉に浮かれて、勝手に傷ついて。
すれ違いばかりだった。

「御門先輩と文化祭の準備?」

「そっか……春樹は居なかったから知らないんだね。冬馬先輩の薦めで、3年生の有志が集まった出前食堂を少しだけお手伝いしてたんだ」

「そうなんだ。俺は参加してなかったから知らなかったな……」

春樹は当時、本当の父親の元に戻っていて文化祭には出られなかった。
まさか、冬馬先輩と春樹が戦うことになるなんて──あの頃の私は少しも想像できなかった。

「ところで、和馬。スミッチ2の初期設定は大丈夫だったのか?」

私たちの話を聞き入っている和馬に、春樹が思い出したように声を掛けていた。

「うん。問題無かったよ? どうして?」

「WiFiの設定とか、時間設定とか色々あっただろう?」

「テレビの接続とWiFiくらいかな? あとはスミッチからスミッチ2に丸ごとデータの転送できるからね」

「そうか。今は色々便利になったんだな……」

春樹の声に、少し影が差す。
その横顔を見て、甥を猫可愛がりしてきた『春樹おじさん』のそのものだった。

「春樹。少し寂しそうだね?」

「うるさいな」

バツが悪そうに、ジロリと私を睨みつけてきた。
その視線から逸らすように和馬の方に視線を移す。

「最近は家電の設置も和馬に頼むこともあるくらいだから。すっごく頼りになるよね、和馬?」

私の言葉に、和馬は頷いて答える。

「母さんより、僕が説明書を読んだほうが早いんだもん。配線とかもスッキリするし、今ならスマート設定とか色々あるからね」

まだ力仕事は任せられない幼さは残るものの、他の事に関してはかなり頼りになることも増えてきていた。
私が機械音痴だから、つい、頼りにしてしまうことも多くなってしまう。

「そうか。これからも姉さんが困ってたら、助けてあげてくれよ」

「任せて。僕、そういうのは得意だからね!」

胸を張る和馬。
その姿が、不意に機械工学科に進んだ冬馬先輩と重なって見えた。
亡き人の面影を抱えながらも、未来に歩いていく強さを息子が見せてくれる。
その事実が、不思議なほど心強くて──温かい涙が、胸の奥で静かに滲んでいった。








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最終更新:2025年09月10日 08:51