静かなリビングに、扇風機の回る音だけがやけに大きく響いていた。
その規則的な低い唸りは、むしろこれから訪れる会話の重さを際立たせているようだった。

春樹は腕を組んだまま、机の上のフロッタージュに目を落とす。
窓から差し込む西陽が斜めに差し込み、その横顔に深い影を刻んでいた。
そこに浮かぶ表情は、もう「甥を可愛がる春樹おじさん」のものではない。
春樹の中に隠されていた、切実で、避けようのない何かが表に滲み出ていた。

(きっと……これは能力に関わること。ここから先は、子供が聞いて良い話ではないのかもしれない)

私は胸の奥に固い決意を押し込み、できるだけ穏やかな声で息子に向き直った。

「和馬。スミッチ2は自分の部屋でしてくれるかな。これから、おじさんと大切な話をしなくちゃならないから」

和馬は、私の強張った顔と春樹の険しい顔を交互に見比べ、しばし黙り込んだ。

やがて、その瞳に小さな理解の影が宿る。

「うん、分かった」

「悪いな、せっかく誘ってくれたのに」

「対戦したくなったらオンラインもあるから、平気。……話が終わったら、ゲームに付き合ってね」

パタン。
ドアが閉まる乾いた音が、やけに冷たく響いた。
子供の無邪気な時間が、この部屋から締め出される。

残されたのは、大人として過去と向き合わなければならない私たちだけ。

無意識に背筋を正した。
今から告げられることは、もう後戻りできないものだと感じていた。

「それで、春樹。この図は、一体……」

春樹は静かに息を吐き、目を細める。

「これは、多分、可能性の縮図だと思う」

「可能性の縮図……?」

「言い方を変えれば、並行世界の図と言ってもいいのかもしれない」

「並行……それって、まるで私の……胡蝶の夢と一緒……」

「同じだね。姉さん、ペンと紙あるかな」

私は慌てて近くにあったメモ用紙とボールペンを手渡す。
春樹はさらさらと筆を走らせ、逆さのYにYが連なる図を描きだした。
そして最初の分岐に「1500年前」と書き込み、枝分かれの終点に「現在」と記してから、静かにこちらを見た。

「最初の分岐、これは1500年前。壱与の生きていた時代。それが大きな転換点だ」

「壱与って……冬馬先輩から聞いた、帝と鬼の姫の話……」

1500年前。
私と冬馬先輩はそこで恋仲だった。
そして今、再び長い時を越えて結ばれた。
繰り返される縁の不思議に、胸の奥がじんと熱くなる。

「そして、この現在に近い方の分岐。これは姉さん自身が起こしたものだ」

「私……?」

思わず自分を指差す。
けれど春樹は、揺るぎなく頷いた。

「そうだよ。姉さんが冬馬先輩を選んだ時点で起きた分岐。……細かい枝分かれを入れたら、きりが無いけどね」

私の選択。
それが、この線を未来へと導いた。
紙に描かれた小さな枝の一本が、急にずしりと重く見えた。

「でも、この1500年前の分岐点は、別人の仕業。姉さんの覚醒を促した人が起こしてる」

(覚醒を促した……あの時の)

胸に蘇る。
春樹と冬馬先輩の決闘を、失意の中で見ていたあの瞬間。
私を奮い立たせてくれた、美しい少女の姿を。

「それって……黄泉醜女さん……?」

「正解だ。実は彼女も、姉さんと同じ能力を持っている。だから1500年前に胡蝶の夢で並行世界を構築したんだ」

血が逆流するような感覚に思わず息を呑む。
もしや——彼女も巫女ということなのだろうか。

「じゃあ、このメッセージに書かれていた“帰れる可能性大”の彼女って……黄泉醜女さんのことなの?」

春樹は、重く、大きく頷いた。

「実は、黄泉醜女は迷子なんだ。……俺も、恐らく彼女自身も、もう帰る場所は存在しないって思っていた。だけど御門先輩の言うように、誰も認識してないだけで、どこかに存在してるなら。そんな小さいけど、確かな可能性を指摘したかったんだろうな」

認識の誤り。
気づかない限り、存在しないものと錯覚してしまう。
冬馬先輩はそんな罠を、私たちに指摘しようとしていたのだ。

リンゴが地面に落ちることを誰もが知っていた。
ただ、その「当たり前」から目を逸らさなかったニュートンが万有引力を見出したように。

冬馬先輩の透き通る視野は、今もなお私たちの手を引いてくれる。
亡くなってしまっていても、伝えようとしてくれるその思い。
つい胸が熱くなり、冬馬先輩の残したメモにそっと手を置いたのだった。





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最終更新:2025年09月16日 06:24