「ただ──黄泉醜女が帰るという前提で……ひとつ大きな問題があるんだ」
春樹の低い呟きに、私は顔を上げた。
その声音には、感傷を切り捨てる冷たさが宿っていて、胸の奥でざわりと不安が広がる。
「問題? だって、帰る場所があるって分かったんでしょ?」
わずかな安堵が一瞬で掻き消される。
春樹の言葉の奥に潜む「マイナスの響き」に、心が釘を刺されたように引っかかる。
「せっかく分かっても、相手に伝えなきゃ意味がない。……その事実を黄泉醜女に伝える手段が、もう無いんだ」
(……もう、無い)
脳裏に暗雲が立ち込める。
そうだ、あの時──私は冬馬先輩を生き返らせたいと願ってしまいそうで、自らの能力を封じてしまった。
春樹も黄泉醜女に会えていたのは、鬼のマナを媒介にしていたから。
けれどそのマナも、私の中で深く眠り続けている。
あの日、文化祭の午後。
冬馬先輩の唇に封印を刻んだ瞬間、すべては閉ざされた。
今や彼は骨となり、その鍵は永遠に失われてしまった。
「……私が、能力を封じてしまったから、だね」
「ああ。黄泉醜女は“巫女の呼び掛け”に応えて現れる。資格を放棄した姉さんには、もう……呼ぶことはできない」
春樹の言葉は淡々としているのに、胸に突き刺さる。
(でも……それでも……)
「春樹。どうにかならない?」
思わず縋るように声が震える。
春樹なら、ループの中で誰よりも知識を積み重ねた。
絶望の中から抜け道を探し当てる、その執念を私は知っている。
春樹は小さく唇を噛み、独り言のように漏らした。
「……かなり不確定だけど。方法は二つ、思いついてる」
(やっぱり……そうだよね)
春樹はいつだって、絶望だけを私に渡したりしない。
あの時もそうだった。
自分に不利になる真実を、それでも私に告げてくれた。
だから今も──かすかな勝算を差し出そうとしている。
「一つ目は……うちの家のマナに頼むこと、だね」
「……マナ? でも、マナは私の中に封じたはずでしょ?」
「姉さんが命の一部を与えてくれた勾玉。その欠片に宿ったマナが、俺のマンションに居着いてるんだ」
春樹の声がわずかに濁る。
秘密を打ち明けることに、ためらいがあるのがわかる。
「じゃあ……マナは春樹と一緒に暮らしてるの?」
「暮らすなんて優しい言葉じゃない。人の形をした黒い塊で……部屋の隅にずっと立ってるだけ。会話もなく、壁のシミか置物みたいな存在だ」
(壁のシミ……)
私はぞくりと背筋を冷たくする。
春樹が平然と語る光景を想像するだけで、手のひらに汗が滲む。
「やめてよ……。私が幽霊苦手なの、春樹も知ってるでしょ?」
巫女だったくせに、幽霊が怖いなんて。
でも、大人になった今も、やっぱり怖いものは怖い。
「安心だ、無害だから。それに……呼べば、たまに寄ってくるんだ」
春樹はあっさり言うけれど、その淡々とした調子が逆に不気味さを増す。
彼は得体の知れないものと、もう「共存」に慣れてしまったのだ。
私は震える指先を握りしめ、強引に話題を切り替える。
「……もう一つの方法。それも、教えて」
「……こっちは、うまくいけばもっと手っ取り早い。それは──隆さんにお願いすることだ」
(隆……)
しばらく会っていない名前に胸がざわめく。
スマホには、まだ電話番号が残っているはず。
「じゃあ、私からスマホで連絡入れてみるね?」
「無駄だよ。今の世界の隆さんじゃダメだ。……もっと遠くの可能性の隆さんじゃなきゃ」
「遠くの……隆……?」
視線を落とすと、机の上のフロッタージュがじっとこちらを見返してくる。
枝分かれする線のどこかに、まだ知らない隆が存在するというのか。
「それで……どうやって遠くの隆にお願いするの?」
(私には、もう何もできないし)
春樹の声は淡く、しかし確信を帯びていた。
「……俺の夢の中で感じた気配と、微かにこの部屋に居座る気配とが、いつも一致してる。もし、この仮説が正しければ……それが黄泉醜女にアクセスする鍵になる」
そう言うと、春樹は音もなく立ち上がった。
ペン立てからカッターナイフを無造作に取り上げ、その銀の刃が西陽を反射して鋭く光る。
次の瞬間。
彼はリビングのチェストに近づき、そこに置かれていた古びたクマのぬいぐるみ──
色褪せた青いリボンを首に巻いた“チハル”を鷲掴みにした。
そして、バンッと。
ダイニングテーブルに叩きつける乾いた衝撃音が、静かな部屋に雷のように響き渡った。
最終更新:2025年09月16日 15:31