「……起きろ、チハル。お前の腹綿を引っこ抜かれたくなければな」
その言葉は、ふだんなら冗談めかして言いそうな調子ではない。
春樹の声は冷たく、低く、刃物のように澄んでいた。
カッターナイフが闇を切るように机に突き立てられ、ぬいぐるみのチハルは春樹の力で歪んで見える。
その異様な光景に、胸の内がぎゅっと絞られるような寒さが走った。
「ちょ、ちょっと、春樹!」
思わず伸ばした手が空を切る。
止めたくても、15年前に見たあの鋭い眼差しがそこにある。
──あの冬馬先輩と私の前に立ち塞がった春樹の、それと全く同じで。
記憶の中の恐怖が皮膚の下でざわつき、息が詰まりそうになる。
「姉さん、これは遊びじゃないんだ。ずっと救われずにいる魂の救済になるかもしれないんだから」
その言葉は冷淡で、しかし揺るがない信念の匂いがした。
ループのなかで春樹が負ったものの重さ。
私の知っている、温かな笑顔だけの春樹はもうここにはいないのかもしれない。
そんな思いが胸を刺した。
(春樹……)
口に出せない何かが喉の奥で詰まる。
自分を鋭利に変えなくてはならないほどの地獄を想像すると、胸が痛くなる。
それでも、黄泉醜女は私たちにとってもループから抜け出せるよう配慮してくれた大切な恩人。
救うべき存在だという確かな感覚が、震える掌を固くさせる。
(魂の救済……)
決意がゆっくりと体の中に満ちていった。
春樹のその人でないような振る舞いをただ見ているだけではいけない。
私は、震える手を伸ばして、カッターナイフを握る彼の手にそっと重ねた。
「……春樹。私もやるよ」
私の声は小さかったが、内側から来る確かさが乗っていた。
刃を持つ冷えた指に触れたとき、春樹の目に一瞬だけ迷いが走る。
でもそれはすぐに消え、二人の体温がチハルへと伝わる。
「姉さん……?」
「チハルは離れた隆との絆の証になるんでしょう? なら、持ち主である私にも資格があるはず。きっと、私にしかできないはずだから」
そう言うと、私は刃をチハルの胸からそっと逸らした。
刃先が布の上を滑る感触に、心臓が大きく鳴る。
二人の掌のぬくもりでぬいぐるみを包み込むと、世界の空気がみしりと動いた。
そして、静かに目を閉じる。
(お願い……聞こえるなら、応えて。私たちだけじゃ、どうにもならないから)
祈りにも似た呟きが、部屋の隅を這うように消えていく。
硬い空気の中、ガラスの目がふっと淡い光を宿したとき、私の胸の奥の何かが弾けた。
「ボク……ここは……」
幼い声が、埃を含んだ空間に柔らかく響く。
それはまるで、遠い記憶の引き出しが開くような音だった。
(懐かしい……チハルの声だ……)
「チハル! すごい、久しぶりだね」
「愛菜ちゃんと春樹……?」
言葉を交わすたびに、春樹の肩から鋭さが抜けていく。
カッターナイフはカチカチと音を立て、やがて刃は机へと下ろされた。
元の春樹おじさんの空気に戻ったその瞬間、思わず胸を撫で下ろす。
「成功だな」
春樹の淡い笑いに、私はまだ震えを隠せないまま頷く。
ぬいぐるみはむくりと起き上がり、その縮こまった身体をそっと伸ばした。
「あの、ボク……」
チハルは戸惑いを隠せない様子で、小さくもぞもぞと動く。
時間は確かに流れていた。
色褪せた毛並み、擦り切れたリボン——それでも声は変わらない。
「お前に大切な頼みがあるんだ。だから15年ぶりに起こしたんだ」
「たいせつな、たのみ……?」
「そうだ。一回しか言わないからよく聞け。これからチハルは“在るべき場所”に戻るんだ」
「あるべきばしょ……?」
その言葉に、チハルの小さな顔がきょとんとする。
私は深く深呼吸をする。
私達が集中した瞬間を見計らって、春樹がゆっくりと説明を始めた。
「お前が帰るべき場所ってのは、ここじゃない。ある座標の隆さんが結ばれた世界。チハル、お前はその世界で、隆さんの子として生まれ変わるんだ」
「ボクは……隆の子どもなの……?」
ぬいぐるみの声に戸惑いと、どこか淡い期待が混じる。
私は胸の奥で熱いものが込み上げるのを感じた。
それは希望でもあり、喪失でもある。
「恐らく、これからだ。でも、問題は多い。父親になる隆さんは、ここからかなり遠い座標にいるから」
春樹はフロッタージュの図を広げ、指である分岐点を指し示す。
紙の線は無機的だが、指先が触れるたびに現実味を帯びてくる。
「ここが現在。そして、俺たちが接続したい隆さんは──反対側の世界にいる。出来るか?」
1500年前の途方もない昔に分かたれた、遠く離れたもう一つの座標。
まるで距離そのものが異なる世界線だ。
胸の奥に小さな恐れが生まれる。
(遥か遠くに存在する隆……)
別の可能性のなかでは、隆は誰と結ばれるのか。
どんな経緯でそうなったのか、想像するだけで胸が甘く疼く。
「うん!……パパさんになる隆を探すんだね。やってみる!」
チハルの声には、子供らしい純粋な決意が籠っていた。
春樹の瞳はどこか遠くを見据え、信頼を含んだ口調で続ける。
「接続先の隆さんに気づいてもらえれば、成功だ。あの世界の隆さんなら、どうにかしてくれるはずだから」
(隆が……何とかしてくれる……?)
春樹が隆に寄せる確信は、不思議と説得力がある。
隆は神器や神宝ではないのに、なぜか頼れる存在として語られる。
その裏にある物語が気になって仕方ない。
「春樹。その世界の隆をよく知ってるの?」
「まあ、なんとなくは。隆さんは……人よりも神に近い存在だった。今は無理をしたせいでほとんど能力は残っていないけど、認識の操作や呼び掛けくらいは出来るはずだ」
(神さま……)
私の頭の中には一般的な神像がふわりと浮かぶ。
白髭で杖を持ち雲に乗る姿——思わず笑いが零れそうになる。
「もしかして、その隆はヒゲ生えてて杖持って雲の上に乗ってるの?」
「そうだな。確かに“ロフストランドクラッチ”っていう、腕に通すタイプの松葉杖を使ってる。だからチハルは足の悪い隆さんを思い浮かべるんだぞ?」
「わかった……杖の隆だね!」
「頼んだからな」
春樹とチハルの小さなやりとりを、私はただ黙って見つめた。
古びたぬいぐるみが、今や未来を担う使者に変わろうとしている。
胸に渦巻く期待と不安を抱えながら、私はそっと手を組み直した。
──これが、新しい旅の始まりなのだと、体の芯で理解しながら。
最終更新:2025年10月12日 05:22