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周防さんの操る大きな車体は、まるで深海を泳ぐように、海岸沿いの道を滑らかに流れていく。
少し荒っぽいところのある、春樹の運転とは違う。
丁寧で、恐ろしいほどに正確なハンドリング。
徹底して法定速度を守るそのセイフティードライブは、助手席の私を過保護なほどに揺らさない。

窓の外は、世界が夜へと衣替えをする時間だった。
藍色を深める海が、残されたわずかな陽の光を貪欲に飲み込んでいく。
水平線は重く横たわり、空と海の境界を曖昧に溶かしていた。

密閉された車内には、独奏の弦楽器が低く響いている。
周防さんの選曲だろうか。
落ち着いたクラシックが、波の音の代わりに空間を満たしていた。

(意外だな……)

もっと、都会の喧騒や流行を映した音楽が似合うと思っていたから。

「周防さんって、クラシックが好きなんですね。もっとロックやポップスを聴くのかな、と思っていました」

「そうか? 思考を邪魔されないし、何より……水底にいるようで落ち着くからな」

「これは何ていう曲なんですか?」

「バッハの『無伴奏チェロ組曲』だ」

たった一挺のチェロが紡ぐ旋律。
その音色は、言葉にできない孤独を抱えた男性が、静かに吐き出す溜息のようにも聞こえた。
弦が震えるたび、胸の奥の柔らかい場所が締め付けられるような哀愁が漂う。

「ところで……」

ふと、周防さんの声のトーンが一段落ちた。
何かを言いたげなその横顔が、等間隔に並ぶ街灯に照らされては、また深い闇へと沈む。
光と影が彼の表情の上で点滅を繰り返し、本心を隠しているようだ。

「何ですか? 改まって」

「春樹のことだ。お前、ヤツのことをどう思う?」

その問いかけは、どこか探るような、それでいて答えを最初から諦めているような、乾いた響きを持っていた。

「どうって……大切な家族ですよ。和馬にとっても、いい叔父さんですし」

私は迷わず答える。
淀みなく、真っ直ぐに。
だって、それ以外の答えなんて持ち合わせていないから。

「春樹がお前のために……人生を棒に振ってもか?」

赤信号。
車が静かに停止すると同時に、周防さんの指がハンドルをトントンと叩く。
その不規則なリズムが、私の心拍を少しだけ乱した。

(私だって……わかってる)

あの、高校の文化祭前。
春樹が巻き込まれていた、終わりのない悲劇を知っているから。

「ループのことは知ってます。それが、私や別の世界の私のためにしてきた事も、分かってるつもりです」

文化祭前日から半年の間を、50回繰り返した孤独な旅。
そう教えてもらった。
それが私を、そして別の世界の私をも救うための手段だったという事も。

「いや、そういう意味じゃない。俺は過去の話じゃなく、今現在での事を言ってるんだ」

「今……ですか? そうですね……春樹は仕事人間だから。家族としては、とても心配です。いつも睡眠不足みたいだし、無理ばかりして」

「家族として、か。……あいつはお前のために、自分の人生を全部ドブに捨ててきたんだぞ。それについてはどう思う?」

ドブ。
その汚れた響きに、カチンと心が波立つ。
以前の、何も知らなかった頃の私なら、声を荒らげていたかもしれない。
でも私はもう、一人の親だ。
そんな挑発に目くじらを立てるほど、幼くはないつもりだった。

「もちろん、感謝してます。春樹には苦労ばかりかけて……。だからこそ、私がしっかりしなきゃって思うんです」

私はシートに背中を預け直し、フロントガラスの向こうに広がる夜を見据えた。

「姉として、安心できるような家庭を守っていくことが、私にできる、唯一の恩返しですから」

シングルマザーとして、立派に和馬を育て上げる。
それが、私を助けてくれた春樹への、そして亡き冬馬先輩への一番の誠意だと信じている。
これは、私の信念でもある。

周防さんが、チラリと一瞥する。
街灯の光が一瞬だけ彼の瞳を照らし――そこには、底知れぬ哀れみのような色が浮かんでいた。
彼は深く、重く、チェロの低音のような溜息をついた。

「……すごいな、お前。ある意味、無敵だ」

「え? それ、褒めてます?」

「いや、呆れてる。……春樹の野郎、とんでもない怪物を飼ってやがったな」

「怪物って……」

(さっきから、本当に失礼すぎるんだけど)

ムッとして頬を膨らませる私を横目に、周防さんは「悪い悪い」と力なく笑い、コンビニへとハンドルを切った。

しばらくして戻ってきた彼の手には、コンビニの白いビニール袋が揺れている。

「詫びのしるしだ。これやるよ」

渡されたのは、冷えた缶ビールと、箱に入った『ヤポロチョコレート』。
いちご味とミルクチョコレートが層になった、ギザギザの小さな円錐形。
甘さと苦さ。
子供っぽさと大人びた味。
ちぐはぐな組み合わせだった。

「晩酌セットだ。和馬君が寝た後にでも一杯やるといい。……頭の中身、少しは整理できるかもな」

「整理って……私、混乱なんてしてませんけど」

「まあ、いいから。飲めば分かる」

周防さんはニヤリと意味深に笑い、マンションの前で車を停めた。

「送って頂き、ありがとうございました」

「どういたしまして。今日はとびきりいい夢が見られるといいな」

ドアを閉めると、涼しい夜風が頬を撫でた。

「夢……ですか?」

「ああ。それじゃ、今度の満月にまた会おうじゃないか」

「はい。春樹なら見つけてくれるって信じてますから!」

「はは……。こりゃ春樹も大変だな」

その言葉を最後に、ウィンドウが上がりきる。
走り去っていく車のテールランプが、夜の闇に赤い残像を引いて消えていく。

私はその光を見送りながら、小首をかしげた。
周防さんは結局、何を言いたかったんだろう。
春樹が大変なのは知ってる。
だから私が姉として、精一杯、頑張っているのに。

「……怪物だなんて」

少しだけ、胸の奥が苛立ちで燻る。
指先でビニール袋の持ち手を強く握り直し、私はアパートの自動ドアを開けた。
ガラスに映った自分の顔は、何一つ間違っていない。
うん、と無理に頷いて。
お腹を空かせて待っている、和馬の待つ家へと戻ったのだった。



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最終更新:2025年11月19日 17:57