玄関のドアを開けた瞬間、出迎えてくれたのは温かな空気と、息子の等身大の要求だった。
「母さん、今日のご飯なに?」
「おかえり、の前に夕食の催促?」
苦笑交じりに釘を刺しつつ、私は急いでエプロンの紐を結ぶ。
最近の和馬は底なしの胃袋を持っているようで、その成長に嬉しさと戸惑いを覚える日々だ。
慌ただしく夕餉を整え、食べさせ、片付けをし、やりかけの仕事を片隅で処理する。
ようやく一息ついてお風呂から上がると、時計の針はすでに十時を回っていた。
静まり返ったリビングでは、和馬がソファに沈み込むようにして寝息を立てていた。
手には『スミッチ2』のコントローラーが握られたままだ。
画面の中では、レースゲームのキャラクターがゴールラインで無邪気に飛び跳ねている。
「よっぽど嬉しかったんだね……」
私はそっとコントローラーを外し、風邪を引かないように毛布を肩まで引き上げた。
寝顔を見つめる。
目元は冬馬先輩に似ているようで、口元のあどけなさはどこか春樹の面影を宿している気がした。
和馬は私と冬馬先輩の愛の証。
育んだ絆そのものだ。
それなのに。
時間が経つほど薄れていく写真のように、現実の輪郭の方が濃く見えることがある。
血は繋がっていなくても、春樹の方が遥かに長い時間を共有してきた。
その記憶の集積が、息子の顔立ちにまで影響を与えているのだろうか。
(……だめだ、頭を冷やさなきゃ)
ふいに、周防さんの言葉が脳裏をよぎった。
『ドブに捨てる』『怪物』。
心臓に深々と突き刺さった棘は、まだ抜ける気配がない。
あの侮蔑の色を含んだ声が、静かなリビングに幻聴となって反響する。
私は逃げるようにキッチンへ向かい、レジ袋から例の「晩酌セット」を取り出した。
ピンク色のパッケージ『ヤポロチョコレート』と、結露で濡れた缶ビール。
「……変な組み合わせ」
ダイニングテーブルにそれらを置き、部屋の明かりを落とす。
間接照明の頼りない光だけが残る薄暗い空間。
私は影の中に身を沈めるように椅子に深く腰掛けた。
プシュッ。
静寂を切り裂く乾いた音が響く。
躊躇いながら流し込んだ冷たい液体は、舌が拒絶するほどに苦かった。
「……苦い」
普段飲まないアルコールの刺激を誤魔化すように、チョコレートを一粒、口に放り込む。
イチゴ味のチープな甘さが口いっぱいに広がり、ビールの苦味とちぐはぐに混ざり合っていく。
手持ち無沙汰にパッケージを眺めた。
「へー。この型って月面着陸した宇宙船と一緒なんだ……」
宇宙服を着た可愛らしいウサギのキャラクター。
そして、チョコと同じ円錐形の司令船。
アポロ11号が月から帰還した年に発売されたお菓子らしい。
(そういえば。冬馬先輩も、よく夜空を見上げてたな)
ビールの苦味をチョコの甘さで塗り潰す。
食べて、飲んで、また食べて。
ぐにゃり、と視界が歪んだ。
下戸の私の体温が一気に上昇していく。
まだ歯も磨いていないのに、意識の輪郭が溶け出していくようだ。
『……発泡酒よりコクがあるって、友人に教えてもらった』
私の声じゃない。
低く、穏やかな男の人の声が、脳内に直接響いた。
今のリビングじゃない。
頬を撫でる、湿った風の匂い。
冷たいベランダの鉄柵。
遠くに見える街の灯り。
そして、窓ガラスに映り込んだ――病的に痩せ細った、冬馬先輩の姿。
(え……これ、先輩の記憶……?)
周防さんが言っていた「細工」とは、映像などという生易しいものではなかった。
感情が、体温が、痛みごと一気に流れ込んでくる。
*
大学に近いアパートの狭いベランダ。
手にした缶ビールを口に運びながら、僕は細い月を仰いでいた。
つわりの酷い愛菜は、今日も早々に布団に潜り込んでしまった。
匂いに敏感になり、青ざめた顔で吐き気と戦う彼女に、夫として代わってやれることは何一つない。
もう一口、ビールを含む。
二口目は、一口目よりも深く苦味が際立った。
「発泡酒よりコクがある」と友人が言っていたが、酒の味など分からない僕には、ただ苦いだけの液体だ。
いよいよ明日は、固形化電池の実用化会議だ。
愛菜のスマホのバッテリーをどうにかしてあげたい。
ただそれだけの動機から始まった研究が、いつの間にか世界のエネルギー事情を変えようとしている。
幸運にも僕の理論は証明され、未来への道筋は見えた。
だが、それは同時に終わりの始まりでもある。
これを区切りに、僕は自身の寿命について周囲に告げなければならない。
もし生き続けられるのなら。
工学の道で世界の真理にもっと近づけたかもしれない。
何より、愛菜のお腹の中で育つ我が子の成長を、この目で見届けられただろう。
愛菜の提案を受けて、別の形で生き永らえる道もあったはずだ。
けれど僕は、人間として、僕として役目に殉ずることを選んだ。
後悔はない。
ただ、家族と共に過ごす未来を――縋ってでも見届けたいと願う、この胸を引き裂くような痛み。
この感情に名前をつけるなら、きっと「未練」だ。
眼下を走る道路には、ヘッドライトの白とテールランプの赤が川のように流れている。
この世界の営みに、ほんの少しでも波紋を起こせたこと。それが僕の生きた証になればいい。
ふと、缶が軽くなったことに気づく。
プルタブの穴を覗き込んでも、そこには深い闇があるだけだ。
残り少ない僕の寿命と同じだ、と思う。
大切な家族を置いて先に旅立つ。
それがどれほど身勝手なことかも、痛いほど分かっている。
(今後を頼むなら……一人しかいない)
愛菜が最も信頼する人物。
深い孤独の底から、かつて彼女を掬い上げた弟。
千年前から続く、因縁の相手。
(春樹さん……)
愛菜との間にある強固な絆。
それを解くことは誰にもできない。
承知の上で結婚したはずだった。
けれど、心の奥底に巣食う黒の正体も、僕は知っている。
これは間違いなく、「羨望」であり、「嫉妬」だ。
醜い色彩に名前をつけた瞬間、自分の卑しさが鮮明になる。
湧き上がる感情に、名前をつけること。
それも愛菜が教えてくれたことだった。
踵を返し、掃き出し窓に目を向ける。
ガラスに映る自分の姿は、まるで亡霊のように頼りない。
思わず視線を逸らし、再び夜空を見上げた。
街明かりを反射して白く濁った空に、夏の大三角を見つける。
「お母さん」が、織姫と彦星だと教えてくれた星々。
二人を隔てる天の川。
目を凝らしたが、この街の明るすぎる夜空では、銀河の川を捉えることはできなかった。
もしも。
愛菜にとっての本当の彦星が、彼だったとしたら。
だとしたら、僕は――。
小さくため息が漏れる。微かな酔いが、僕を感傷的にさせているだけだ。
残りの時間と引き換えに、愛菜は全ての時間を僕にくれると言った。
その想いを疑ってはいけない。
残りのビールを一気に飲み干す。
足元には、洗濯物を取り込むために借りた愛菜のサンダルがあった。
小さな彼女のサンダルからは、僕の無骨な踵が大きくはみ出している。
その窮屈さが、僕の居場所のようにも思えた。
サンダルを脱ぎ、音を立てないよう、僕は愛菜の眠るワンルームへと戻った。
*
(なに、これ……夢……?)
心臓を鷲掴みにされたような痛みに、私は息を呑んだ。
違う、そんなはずない。
私は先輩を、今でも誰より愛してる。
ずっと、先輩だけを見てきた。
それなのに、どうして。
どうしてそんなに悲しそうなの?
この重苦しい痛みは先輩のもの?
それとも、私のもの?
おでこに伝わる硬い感触で、我に返る。
いつの間にかテーブルに突っ伏していたようだ。
目を開けると、涙で滲んだ視界の中で、テーブルの木目がぐにゃりと歪んで見えた。
「ごめんなさい……冬馬先輩……」
謝っても、もう先輩はいない。
私の知らない孤独を抱えたまま、先輩は独りであのサンダルを脱いで、逝ってしまったのだ。
それより、一番、気になったのは。
どうして、春樹にあそこまで嫉妬していたのか。
あの時の、私は。
お腹の中に命を宿すことができて、永遠を信じて疑うこともなかったのに。
でも、これだけは分かる。
胸に残るこの焼けるような感覚は、私の一番愛する人が最期まで抱えていた、残響そのもの。
顔を上げる。
涙で濡れた頬を乱暴に拭った。
和馬の寝息だけが聞こえるリビングで、私は温くなった残りのビールを一気に煽った。
苦い。
本当に、どうしようもなく苦い、真実の味がした。
最終更新:2025年11月27日 07:33