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カレンダーの『満月』の文字に、赤い丸がついている。
そこだけ時間が止まっていたみたいに、赤がくっきりと浮かんで見えた。

あれから二十八日。
私は和馬を実家の両親に預け、約束した場所でひとり立ち尽くしていた。

メッセージチャットの画面には「無事、観測完了」と素っ気ない文字列。
三日前のタイムスタンプだけが、私の鼓動を淡々と裏切るように映る。
――ギリギリ間に合ったのに。
一人で気を揉んでいたことが、少しバカらしくなる一方で、胸の奥に小さな不安が渦巻く。

少し冷たい夜風が頬を撫で、薄手の袖がかすかに揺れる。
選んだ服の薄さまで、今の落ち着かない心を映している気がした。

ふと見上げると、雲ひとつない夜空に、満月がまるで呼び寄せられたように凛と鎮座している。
冬馬先輩があの日、ベランダで見上げたのも、こんな白い光だったのだろうか。
胸の奥の古傷が、月に引かれるようにじわりと痛む。

フォオオン、と低く滑るようなエンジン音。
黒いセダンが月明かりをまとって私の前に止まる。
助手席のウィンドウが下がり、周防さんの顔が夜気の中に現れた。

「待たせたな。……愛菜ちゃん」

「こんばんは。お願いします」

ドアを閉めると同時に、車内の空気が静かに変わる。
低く流れるバッハのチェロが、まるで自分の心拍みたいに重く響く。

車が動き出すと、周防さんは前を見たまま、静かに問う。

「……どうだった? あのビールの味は」

試すようで、でもどこか祈るような声音。
私は膝の上で指を絡め、逃げずに答えた。

「苦かったです。……胸が焼けるほど」

あの後の一ヶ月、私は冬馬先輩のことを思い続けた。
薄れていた輪郭が、ひとつひとつ息を吹き返すように戻ってきて、そのたびに胸の奥がきゅうっと締めつけられる。

けれど、胸の痛みとともに、別の感情も湧き上がった。
春樹に会うことを前に、私の心は揺れる。
先輩の記憶を胸に抱き、助けたいと思う一方で――
「私にできるのか」「本当に春樹を傷つけずに守れるのか」
そんな小さな疑念が、胸をぎゅっと締めつける。
手のひらが汗ばみ、指先が微かに震える。

「……怖い」

小さく、声にならない言葉が漏れる。
頭では覚悟を決めているのに、心がまだ後ろを振り返っている。
先輩の死と嫉妬の残響。
それが、今も私の胸に重くのしかかっている。

でも、思い出す。
冬馬先輩も、きっと同じように悩み、迷いながらも、自分の役目を全うした。
その姿を知っているから、私は逃げられない。
涙が滲み、視界がかすむ。
それでも私は、胸の奥に溜まった痛みを押し込むように深呼吸する。

「……やらなきゃ」

弱さを認め、葛藤を噛みしめたあと、私は小さく頷く。
迷いの中でやっと見つけた決意。
先輩への愛、春樹への思い、そして和馬への責任――すべてを抱えて、行くしかない。

「先輩が嫉妬するほど頑張っていた春樹を、今度は私が助けます」

その言葉に、周防さんはわずかに微笑んだ。

「頼もしいな。……じゃあ、行くぞ」

アクセルが踏まれ、車は闇を裂くように走り出す。
月の光がフロントガラスに流れ込み、胸の奥に積もっていた迷いを洗い流していった。

※※

春樹のマンションは、駅から離れた高台の上にあった。
夜風が少し強まり、上り坂の静けさが耳に痛いほど澄んでいる。

エントランスを抜け、エレベーターで最上階へ。
廊下の照明が等間隔に灯り、私たちの影を細く長く伸ばす。
まるで、これまでの歩みを振り返るように。

「ここだ」

周防さんが足を止める。
インターホンに手を伸ばす前に、私へ小さく顎をしゃくった。
――覚悟は?
その無言の問いが、胸の奥でカチリと音を立てる。

深く息を吸い、頷く。
そして、チャイムを押した。

すぐにドアが開いた。
春樹の顔は蒼白で、シャツの襟元がわずかに乱れている。
その姿が胸を締めつける。

「……姉さん。周防さん」

「こんばんは、春樹。……入っていい?」

「どうぞ」

部屋の奥は暗く、空気が重い。
私には見えない“誰か”が、深い水面のように沈黙して待っている――
そんな気配だけが、確かにそこにあった。

ここからが、本番だ。



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最終更新:2025年11月20日 15:46