通されたリビングは、ひんやりと冷え切っていた。
まるで誰もいない時間だけが、長く澱んでいるみたいに。
カーテンは閉め切られ、外の光も遮断されている。
空気が重い。
息を吸うたび、胸の奥が静かに沈んでいく。
モノトーンを基調とした、春樹らしい整いすぎた家具。
なのに――どこか、「放棄された部屋」の匂いがした。
背の低い黒いチェスト。
無意識に、その上へ指を伸ばす。
指先に、白くざらついた感触。
(……春樹が、掃除をサボるなんて)
思わず眉が寄った。
あんなに几帳面で、私の雑な掃除を見つけるたびに溜息をついていた人が。
以前に訪れたときは、どこまでも整っていた部屋。
今はまるで、主の心まで一緒に曇ってしまったようだ。
「春樹……ちゃんと食べてる?」
「ほどほどには。疲れて帰るから自炊もあまりできてないな」
「……あんなに料理が好きだったのに」
「一人では、なかなか作る気にならないんだよ」
その言葉の軽さが、逆に胸に刺さる。
(……分かる気がする)
誰かのためじゃない食事。
味がしなくなる時間。
生きることが、ただの“作業”になる感覚。
部屋を見渡しながら、違和感に視線が引き寄せられた。
隅に置かれた、自動給餌器。
埃を被ったプラスチック。
乾き切ったフード。
時間だけが置き去りにされている。
「……これ、ミケのだよね?」
「ああ。……片付けそびれちゃって」
「片付け……そっか。ミケ死んじゃったんだ」
「半年前だよ。二十歳。大往生だった」
“だった”という言葉に、静かに過去が閉じ込められる。
二十年前。
子供時代に経験した、夜の冒険。
凍えるような廃神社を二人で探し回った。
震えるほど温かかった、あの小さな命。
ミケは、私たちを「家族」にしてくれた存在だった。
始めて生きた食事を囲んだような気がした。
そんな、大切な思い出。
「あいつがいなくなって……部屋が、急に広く感じてさ」
春樹は虚ろな笑みを浮かべ、何もない空間を見つめていた。
「寂しかったんだと思う。認めたくなかったけど、どうしようもなく」
その横顔が、ひどく脆く見えた。
「でも……彼女が、姿を見せてくれた」
「彼女って……マナのこと?」
「ミケが死んで、空っぽで……独り言をこぼした時、ふと気づいたら、俺の前に立っていた」
春樹の視線は、部屋の隅にある、何もない空間に注がれている。
まるで、そこに誰かが。
確かに存在しているかのように。
慈しむような、けれどどこか諦めたような目。
私もつられて目を凝らす。
けれど、そこには埃っぽいフローリングと、沈黙があるだけ。
「……どこ? 私には、何も見えないよ」
「ここだよ。俺のすぐ隣」
虚空を撫でるような指先。
そこに“何か”があると信じ切った仕草。
――背筋が、冷える。
「春樹。……愛菜ちゃんには、見えてないぞ」
周防さんの低い声が、空気を裂いた。
「見えて、ない?」
「能力を完全に封じちまってるからな」
「ああ……そうか」
名残惜しそうに手を下ろし、春樹は私たちに向き直る。
「春樹。俺の鏡を」
引き出しから差し出された辺津鏡。
冷たく、重く、まるで意思を持った金属のよう。
周防さんの魂の形そのもの。
私は息を呑み、それを受け取った。
「鏡面を覗いてみるといい。……きっと、アレが映るはずだ」
ゆっくりと角度を変える。
鏡の中で、世界が色を失う。
モノクロの部屋。
そして――春樹の背後。
「……!!」
そこにいた。
黒い影。
人の形をした、何もない闇。
顔のない存在が、春樹の肩に顎を預けるように、歪んだ親密さで寄り添っている。
そして――こちらを見た。
鏡越しに、私を。
鏡の中で揺らめく影は、先ほどよりも輪郭をはっきりさせていた。
黒く、静かで、何も語らない。
まるで夜の水面のように、感情を波立たせない存在。
それでも私は、無意識に息を止めていた。
怖い。
理由なんて分からない。ただ、ぞっとする。
……昔から、お化けが苦手で。
どれほど優しくても。
どれほど哀しくても。
「生きていないもの」が、そばにいる感覚だけはどうしても慣れない。
でも春樹は、違った。
「……マナ」
その名前を呼ぶ声は、とても静かで、あまりにも大切そうで。
触れられなくてもいいと、最初から分かっている人の声だった。
(春樹……)
大切に想っているのは、この影じゃない。
本当の鬼の“マナ”のはず。
取り返せないのは、分かってる。
だからこれは、きっと救いで、残酷な祈り。
鏡越しに、影と目が合う。
のっぺらぼうのはずなのに、不思議と「視線」を感じた。
責められているわけでもない。
むしろ、どこか遠慮がちで、控えめで。
ぞくり、と背中が震える。
無意識に、身体が拒否する。
理性は理解しようとしているのに、心が追いつかない。
春樹の横に寄り添いながらも、影は決して誰にも触れない。
触れようともしない。
ただ、そばに「在る」だけ。
そこには恋でも執着でもなく、 もっと静かな、残骸に近い。
心臓がきゅっと縮む。
この存在を視界に入れたまま、唇を噛んだ。
それはまるで。
昔の優しすぎた自分と、無理やり向き合わされているような感覚。
(私は……こんなものを、生んだの?)
慈みだったのか、後悔だったのか。
それすらもう、分からない。
春樹は何も気づかず、乱れた髪を掬い上げる。
首筋に、肩に、黒い滲みが浸食していく。
それはまるで、二人の体温が混ざり合っているのを確かめるような、濃密な接触。
祈り、というにはあまりに生々しく。
愛、というにはあまりに一方的だった。
救い、なのに。
癒し、なのに。
それでも私は、鳥肌の立つ腕をさすらずにはいられなかった。
怖いのは“存在”ではなく。
それが、かつての自分の延長だという事実なのかもしれない。
最終更新:2025年11月24日 18:26