そう、だよね。
 分かりきっていた回答なのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
 これ以上、苦しみたくないのに。
 どうして私は、自分の傷を抉るような真似をしているの?

梓「でも、姉妹……じゃない」

憂「関係ないよ。そういう考えは、とっくに捨てた」

梓「……そっか」

 十分だった。
 もう、考えたくない。

梓「っ……!!」

憂「具体的に言えば、四歳の時の九月半ばにお姉ちゃんが私に……って、あ、梓ちゃん!?」

 だから、私は逃げ出した。
 家を飛び出して、ただひたすらに、全力で走った。

 昼間の快晴から天気は崩れる気配もなく、夜空には雲ひとつない。
 にも関わらず、地上を照らす光は燦然と輝く星々でしかなかった。
 今宵は新月だったか。
 その僅かな星明かりと、一定間隔に設置された無機質な街路灯を頼りに歩く私の体を、
 夜風が冷たく刺した。

「……なにやってるんだろう」

 虫達の合奏以外には何も聞こえない静かな夜。
 虚空に消えた私の声は、孤独を感じさせるには十分だった。

 荷物、唯先輩の家に置いたままだったな。
 ……今更戻る気にはなれないけれど。
 カメラだってカバンの中だし、
 ムギ先輩に頼まれてた罰ゲームの撮影も、結局放り出すカタチになってしまった。

「唯……先輩……」

 頭に浮かぶのは、唯先輩のあったかい笑顔ばかり。

 ――自分の気持ちに正直になればいいんだよ。

 そんなの、無理ですよ……。

 ――え、でも私もあずにゃんも女の子なのに……?

 告白なんかして、そんな風に拒絶されてしまったら
 私はきっと、立ち直れないから。

「う、……うあっ……」 

 ぽたっ、と乾いたアスファルトに水滴が落ちた。

「ゆい、せ、んぱ、い…っ、う、ううっ……」

 片思いでも構わない、一緒に居られたらそれでいいって思ってた。
 だから、唯先輩が他の誰を好きになったとしても、受け入れられるって思ってた。

 でも、違ったんだ。

 唯先輩と憂の関係には、私の存在は邪魔でしかないのかもしれない――。
 そう考えてしまったときの、胸を引き裂かれたような痛み。

「受け、うっ、入れ、られ、る、はず、うっ、うああ……」

 自分に言い聞かせる為に必死に紡ごうとしているのに、
 嗚咽が酷くて言葉にならない。
 今日一日、ずっと憂に嫉妬してたんだ。 憂は大事な友達なのに。
 ああ、私ってこんなにも欲深かったんだって、気付いてしまった。

 そんな自分が嫌なのに。
 それでも唯先輩を独占したい気持ちはきっと消えない。
 堤防の決壊した河川の様にぼろぼろと、涙が零れ落ちる。

 途切れることない虫の合奏も、どこか寂しそうに聞こえた。

 一体どれくらいの時間が経っただろうか。
 沈んでいた心も、ようやく落ち着きを取り戻し始め、
 私はこれからのことをぼんやりと考えていた。

 いつまでもこんなところで泣いてる訳にはいかないけれど、
 唯先輩の家に戻ることはできない。
 仕方ないよね。
 家族には泊まりって言ってあるけれど、今日は家に帰ろう。

 立ち上がって、再び歩みを進める。

 そのとき、トクン――、と胸が高鳴る音がした。

 ――足音。

 誰かが、走ってくる。こっちに向かって。

 私はゆっくりと、振り返る。

 ――声。

 私の名前を呼ぶ、声。

「…ずにゃ……ん」

 それは段々と近付いていて。

「あずにゃーーーん!!」

 あ……追いかけてきてくれたんだ――。
 嬉しいはずなのに、どういうわけか、再び涙が滲む。


梓「唯……せんぱ――」

 がばっ!

唯「あずにゃあああああん!!」

 いつもより力強く、唯先輩は私を抱きしめてくれた。
 さっきまでの冷め切った心が、嘘みたいに穏やかになっていく。
 私の好きな、優しい匂い。
 私の好きな、心地良い体温。

唯「憂が私が走っていっちゃったって聞いてあずにゃんがキッチンで」

梓「落ち着いてください、何言ってるかわかりません」

唯「う、うぇ……、心配したんだよおおっ!」

梓「……なんで、唯先輩が泣いてるんですか」

 私の名前を何度も呼んで、
 小さな嗚咽を漏らすこの人の前で、涙を流すなんてできる筈がなかった。

 十分にも満たない静寂。

 本当に、どうしてあなたが泣いているんですか。

梓「……少しは、落ち着きましたか?」

唯「うん。ごめんねあずにゃん」

 二人並んで、公園のベンチに腰掛ける。
 人の姿は見えず、まるで私達の為の空間であるかのような錯覚に陥る。
 追いかけてきてくれたことは本当に嬉しかった。
 泣いていた私を、慰めてくれる――ことを期待していた訳ではないが、
 まさか私が慰める立場になるとは、正直予想していなかった。

梓「完全に立場が逆じゃないですか……」

 悪い気は、全然しなかったけれど。

唯「ねえ、あずにゃん」

梓「なんですか?」

唯「どうして、出て行っちゃったの?」

梓「それは……」

 一人ぼっちにされたのが寂しかった。
 唯先輩が憂と仲良くしているのが、悔しかった。
 それに嫉妬している自分がどうしようもなく嫌だった。

 ムギ先輩や澪先輩にあれだけ後押ししてもらって、
 それでも正直になれない私は、やっぱり臆病者なんだろうな。

唯「あ、ううん。答えたくなかったらそれでもいいの」

 だけど―、と唯先輩は続ける。

唯「それがもし、私のせいだったなら――謝らなくちゃなぁって」

梓「違います、唯先輩のせいなんかじゃ――」

唯「ごめんね、ひとりにしちゃって」

梓「……」

 ――見透かされていたのだろうか。
 普段鈍感な癖に、どうしてこんなときだけ。
 なにも、言い返せない。
 違うのに。唯先輩は悪くないのに。
 言い返さなくちゃ、ダメなのに。

唯「私ね、ちょっと後悔してるんだ。
  あずにゃんに寂しい思いさせちゃうくらいなら、ちゃんと話しておけばよかったって」

 唯先輩は月の無い夜空を見上げながら、
 子供みたいに両足をぶらぶらさせて、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

唯「……笑わないでね?」

梓「……笑うわけ、ないでしょう」

唯「えへへ。 実はお料理してたんだー。 ……憂に教わりながらだけど」

梓「料理? どうして、突然そんなこと……」

唯「あずにゃんに、私の手料理食べて欲しかったから」

梓「……」

 キラーパスだった。
 心臓をぶちぬかれたような衝撃に身悶えする。

唯「指とか、切っちゃった」

 人差し指を私に見せて、照れ笑いを浮かべる唯先輩。
 その発言で、ようやく私は気が付いた。

 ――「もう、気をつけてって、言ったじゃない」

 ――「だって……」

 ――「ほら、もっとよく見せて」

 ――「私が……舐めてあげる」

 ――「は、恥ずかしいよ、うい……っ」

 指のことかよ!!
 紛らわしいよちくしょう!!
 いや、指でも舐めようとするのはおかしいけど憂!!

梓「あー、あー、あー」

唯「どうしたの?」

梓「いえ、どうしようもない早とちりした自分が情けなくて」

 ――そう、だったんだ。
 普通に忘れていたけれど、確かに夕飯まだ食べてなかったし。
 ていうか気付けよ。
 階段降りてる途中で声が聞こえてて、降りきるまでに憂が階段の前に来れる範囲って
 リビングの真横のキッチン以外ありえないだろ。
 唯先輩の姿がなかったのはキッチンに居たからだろ。
 なんで、そんな簡単なことに気付かなかったんだろう。

唯「そっか。 ……ごめんね、あずにゃん」

梓「もう、いいですよ。 気にしてませんし……っていうか、私が勝手に誤解しただけですし」

唯「誤解?」

 ……あ?
 なんか噛み合ってないな。

 もしかして、単純に一人にされて寂しかったことが原因だと思ってるのか。
 前言を撤回しておこう。
 やはりこの人は鈍い。

唯「驚かせたかったんだー。
 『唯先輩、実は料理うまかったんですね、素敵っ!』って言わせよ」
梓「言いませんからそんなこと」

 あからさまに私のキャラを履き違えていらっしゃるので、台詞の途中で遮ってやった。

唯「えー、いいじゃん言ってくれても……」

梓「私頭悪い子みたいになってるじゃないですか」

唯「もう、素直じゃないなぁ」

梓「いや、だから。
  なんでそんな恋する乙女みたいな台詞を吐かなきゃいけないんです……か」

 ん? 恋する乙女?
 強ち間違ってもいなかった例えに、一瞬だけ体が強張る。

唯「ふふ。……でも、それがいけなかったんだよね」

梓「……」

唯「憂が慌てて戻ってきて『梓ちゃん出て行っちゃった!』なんて言うんだもん、
  びっくりしちゃったよ」

梓「……それにしたって、泣くことはないでしょうに」

唯「うん。でも、あずにゃんに嫌われちゃったって思ったら、なんか泣いてた」

 そんなことを平気でいいのけて、唯先輩は俯いた。
 痛い。
 心が痛い。
 話題を、話題を逸らすんだ。
 話題を逸らすのよ、梓。

梓「で、これから私はその、唯先輩の手料理を食べるわけですけど」

 あんまり逸らせてなかった。

唯「食べてくれるの……?」

 まぶしすぎて直視できない。
 その上目遣いをやめてください。融けそうです。

梓「……そりゃ食べますよ、お腹ぺこぺこですし。何を勘違いしてるのか知りませんけど、
  私が唯先輩を嫌いになるとか絶対にありえませんから」

唯「あずにゃん……」

 あれ?
 なんだこのムード。
 いつもなら、嬉しそうに抱きついてくるであろうシチュエーション。
 なのに、どうしてあなたはそれをせず、
 薄っすらと目に涙を溜めた上で頬を赤らめておられるのでしょうか。
 そんな顔をされると、こっちまで緊張してくるじゃないですか。

 うわあっ、どうしよう。ドキドキしてきたっ!!

 こういうときは、どうすれば……、どうすれば……。
 そ、そうだ。名前を呼んでみよう。 名前を……。

 『唯先輩……』

 『あずにゃん……』

 見つめ合う二人。そして二人は唇を重ね――

 うわあああああああ!!
 なに考えてるんだ私は!!
 ちがうちがうちがう!!

 もっとこう、砕けた感じで名前を……。

 『ゆいにゃん……』

 『あずにゃん……』

 見つめ合う二人。そして二人はにゃんにゃん――

 もっとちげえ!!

 ――ぴと。

 一人妄想コントをしていると、不意に肩の辺りにあったかい感触。
 ふわりと私の鼻をくすぐる、やわらかい髪。

梓「……っ!!」

 ドキドキ……。
 お、落ち着け、落ち着くのよ梓。
 まずは、今私がどういう状況におかれているのかを確認しなくては。
 いや、もう大体予想はついているけど。
 だけど、生憎と今日私は学んだのだ。

 早とちり、よくない ――ってね!

 キリッ!とした表情を浮かべて、心の中で叫んだ。

 そう、期待とは常に裏切られるモノなの。
 もしかしたら、今私に寄りかかってきているのは、
 唯先輩じゃなくて、夏場に成長しすぎた無農薬栽培のトウモロコシかもしれないじゃない。
 脳内で鼻の大きなおっさんが「わしが育てた」と言いながら、良い顔をしていた。

 くわっ、と眼を見開いて、そっと隣を見る。

 唯先輩が、私に全身を委ねていた。

唯「大好きだよ、あずにゃん」

梓「ふにゃあああっ!!」

 文字通り顔から火が出て、そのまま意識がホワイトアウトした。

梓「……」


 もう、いいですよね。
 よく我慢したよ、私。 うん、偉い偉い。

 唯先輩はきっと、私の言葉を待っているんだ。

 だから、百合の神様。
 どうか私に力を貸してください。
 琴吹菩薩の顔を思い浮かべて祈ると、百合の神様は最高の笑顔で答えてくれた。

 『Yes, We can!』

 よし、いける。

梓「唯先輩」

唯「……」

梓「唯先輩!」

唯「は、はい!?」

梓「……なんでぼーっとしてるんですか」

唯「なんでもないなんでもない、それより、そろそろ帰ろっか。
  憂も待たせちゃってるし……」

 『行け、今だ、行くのよ梓!!』
 脳内で百合の神様が、並列繋ぎのアルカリ乾電池からむき出しの銅線で繋がった
 豆電球をカチューシャ代わりにピコピコさせながら必死に叫ぶ。
 淡い光を帯びて煌く沢庵ライクの眉毛が、これほど神々しく思えたのは初めてだった。

梓「唯先輩……ごめんなさいっ!!」

唯「え……んぅ――!?」

 まるっきり無防備な唇に、私のそれを強引に重ねた。

 『ヨッシャアァァァ!!』

 脳内で百合の神様が吼える。
 雰囲気とか色々台無しだ。
 お前もういい、どっかいけ。

 百合の神様を脳の片隅に追いやったところで、ようやく自分の犯した事の重大さに気付く。

 ちっがあぁぁぁう!!

 順番が違ぁぁぁう!!

 告白が先だろ!!
 なに血迷ってんだ私は!!

 だけど、体は止まらない。

唯「ん、んんっ!」

 その声は口籠もって通らない。私が声の逃げ道を塞いでいるのだから。
 体が芯から熱くなって、胸の鼓動も次第に早くなっていく。
 唯先輩は顔を真っ赤にして、
 『アバンチュール』と書かれたシャツの裾を必死に握り締める。
 そんな様子を見て、私は唯先輩を抱きしめる腕に、一層力を込めた。
 今まさにこのときがアバンチュール。
 同性であり、一つ年上の先輩を、舌で犯すという底知れぬ背徳感。
 それが喩えようのない快感に変わる。

 唯先輩唯先輩唯先輩唯先輩っ!!

 ――。

 そして、私は唯先輩を抱く腕の力を緩めて、唇をそっと離した。

梓「……」

唯「……」

 僅かな、沈黙。
 まずい。
 何か言わないと。

 ……何か。

梓「部屋着のまま、外出しないでください」

唯「え、ええ!? わ、私の純潔を奪っておいて最初に言う台詞がそれなのあずにゃん!?」

 一息でまくし立てる唯先輩。
 まさにExactly(その通りでございます)
 しかしそれでも、

梓「微妙な言い回しですけど、多分純潔までは奪ってません」

 私は、どういうわけか異常に冷静だった。

唯「え、えっと……」

梓「前に、言いましたよね。私は唯先輩のことが好きです……、って」

 一ヶ月前のことだ。唯先輩の部屋で、私はそう告げていた。
 よくよく考えたら、あの時、憂も一緒にいたんだけど。

梓「あの時、唯先輩は『私も好きだよ』って答えてくれました」

 いつものほんわかした笑顔で、そう言ってくれた。

梓「勿論わかってます、あの時の『好き』は、こんな意味なんかじゃないって」

唯「……」

梓「だけど、私の『好き』は違うんです」

 ずっと苦しかった。
 順番は違ってしまったけれど、きっと今しかない。

梓「好きです。愛しています、唯先輩。 私と……、付き合ってください」

 ……ああ、勢いで言ってしまった。
 顔から火が出そうだ。
 どうしよう……、受け入れてもらえなかったら、私は……。
 目を思いきり瞑って、唯先輩の言葉を待つ。
 一秒、二秒、そして十秒があっという間に過ぎて行く。
 この時が、永遠のようにも思えてくる。
 唯先輩――。



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最終更新:2010年07月27日 21:09