意識が浅く浮かび上がって、うっすらと瞼を開く。
ベッドサイドの出窓から射し込んだ日が枕元に落ちてまぶしい。

「ん……」

掛け布団から左手だけ引っ張りだして、てのひらを額の上に乗せる。
もうひとつの枕の主は、既に抜け出したあとだ。

「……いま何時、」

サイドテーブルの携帯に手を伸ばして液晶パネルを確認する。
デジタルの数字が11:25と表示されているのを見て、溜息がこぼれた。

少し重い頭を振って寝室を出ると、
ローテーブルの上にはラップの掛かったおにぎりと小さなメモ書き。

  たまった洗濯物とゴミをやっつけに一旦部屋に帰ります。
  昼過ぎにまたくるよ。

走り書きされた乱れ気味の文字に少し笑って、
ありがと、と今ここには居ない相手に礼を言った。


…………

「なんだ、まだ食べてなかったのか?」

濡れた髪をタオルで拭いながらダイニングに戻ると、
小振りなメッセンジャーバッグをたすき掛けにしたままの律が
こちらを振り返った。

「あ、うん。ごめん、さっき起きたばかりだから」

そう応えた私に、夜更かしはお肌の大敵ですわよと笑って
バッグをソファーに放り投げ、腕まくりしながらキッチンに向かう。

「締切まで余裕あるんだろ?あんまり根を詰めてたら書けるものも書けないぞ」

「うん、わかってはいるんだけどさ」

「お茶いれとくから、先に髪乾かしておいで」

キッチンカウンターの向こうでケトルをゆらしてみせた律に、
ありがと、と微笑みを返す。

髪を整え着替えを終えて再びダイニングに戻ると、
律が作り置きしてくれていたおにぎりの他に、おかずがいくつか増えていた。

「あったかいうちに食べようぜー」

急須と湯呑みを持ってキッチンから出てきた律に頷いて、
向かい合わせでローテーブルに座り、いただきます、と手を合わせる。

「あ、そうだ」

ブランチになったおにぎりを頬張る私の向かい側で、
律が思い出したようにメッセンジャーバッグに手を突っ込んだ。

「ほい、こないだの写真」

「あ、プリントしてきてくれたんだ」

ローテーブルの空いた場所に小さな山を作ったサービスサイズのプリントを、
ふたりで一緒に覗き込む。

「……みんないい顔してる」

「うん」

「あー、梓、泣きすぎてメイク落ちちゃってるよ」

「澪も人のこと言えないから。ほれ、これなんか」

律は笑いながら、手元の写真を1枚、私のほうに寄せた。

「うわ、ほんとだ酷い顔」

「でも、幸せな顔、だろ?」

「ふふっ、そうだな」

ふと、目に留まった一枚を拾い上げてみる。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で肩を組んで、カメラにピースサインを向けた律と私。

「……夢じゃ、ないんだな」

「当たり前だろ。……あっ、夢と言えばさ、」

「ん?」

顔を上げて、視線を合わせる。

「今朝寝ながら笑ってたけど、なんかいい夢見てたのか?」

「えっ?……ああ、そういえば」

夜明け前、熟睡している律を起こさないように潜り込んだ布団の中、
浅い眠りで見た夢を断片的に思い出す。

「高校の時の夢、見てた。みんな部室にいて」

「へえ」

「さわ子先生もいたよ」

「トンちゃんは?」

少し笑って訊いた律に、どうだったかな、多分いたんじゃないかなと返す。

「夢の中で、何かやってた?」

「いつものティータイムだった気がするよ。ムギの紅茶とお菓子が美味しくて」

夢の中じゃ味なんてわかんないだろ、と律がまた笑う。

「いっぱい喋って、いっぱい笑ってた」

「ああ……。毎日そんなだったな」

「うん」

拾い上げて手に持ったままだった写真に視線を戻す。
ほんの数日前に撮ったその写真に、じんわりと涙腺が緩むのを自覚する。

「さわちゃんと撮ったのもあるぞ。ほら、これこれ」

律はそう言って、写真の山から引き抜いた一枚を私の前に置いた。

まるで高校生の頃に戻ったような、子供みたいな顔で先生に抱きつく私たちと、
大きく両手を広げて私たちの肩を抱いているさわ子先生の温かな笑顔。

「さわ子先生、すごく喜んでくれてたね」

「……さわちゃんに、恩返しできたよな?私ら」

律の言葉に頷いたら、鼻の奥がツンと痛んだ。
緩んだ涙腺が熱を持って、視界が潤む。

「あれ?みおちゃーん、また泣いてるんでちゅかー?」

茶化すように覗き込んだ律を、うるさい誰のせいだ、と軽く睨む。
それからひとつ息を吐いて、持っていた写真をテーブルに戻した。

「……夢じゃないんだな、ほんとに」

「それ2回目だぞ?」

「うん、でもなんかまだ、夢みたいで」

「演ったんだよ私ら。武道館でライブ」

夢じゃないぞー、と、律は目一杯伸ばした右手で私の頭をぐしぐしと撫でながら
みんなの分もプリントしたから渡さないとな、と、やさしい笑顔を見せた。



…………

食器を洗う私の隣で、律がドリップの準備をする。

今朝見た夢のせいなのか、
ふと、この風景にリンクした記憶が脳裏に浮かび上がってきた。

「ん、なーに笑ってんだ?澪」

クスクスと笑う私に気付いた律が、
火にかけた細口ケトルから私に視線を移す。

「や、ちょっと思い出しちゃって」

「何を?」

「律が、告白してくれた時のこと」

私がそう言うと、律は口を結んで少し眉を上げた。

今よりもっと狭い、ふたり並べばいっぱいになってしまう小さなキッチンで、
あの時もこうやって食器を洗い、律はコーヒーを淹れていた。

私が落とした箸を拾おうとふたり同時にかがんで、
お互いの額を酷くぶつけたっけ。

「あの時は、ほんと、痛かった」

私が思い出したことが伝わったかのように、律が苦笑いしながら呟く。

「あの時、いきなり律が、キ」

「皆まで言うなっ!」

大きな声を出して両方のてのひらを私に向け、律が拒絶のポーズを取る。
その姿にちょっとした悪戯心がわいて、私はかまわず言葉を続けた。

「キスしない?なんて言うから、びっくりしたよ」

「だーっ!言うなってば!」

私に向けていた手で顔を覆って盛大に照れる律に、こらえきれず噴き出してしまう。

「だから痛かったって言ってるじゃんか……」

耳と頬を染めて拗ねる律にごめんごめんと謝ったけれど、
声が笑ってんだよ、と、律はますます唇を尖らせた。

「私あの時、てっきり梓への返事のことを言うのかと思っててさ」

「……」


私たちが大学1年生になった年の秋。

音楽の道を志すため専門学校への進学を決めた梓が、
放課後ティータイムでメジャーデビューしたいという想いを私たちに告げた。
返事は待ちます、考えてみてください、と真剣な顔で言った梓を思い出す。

即日返事をした唯とムギとは違って、律と私はなかなか返事を出来ずにいた。

もっとも、私の答えは既に決まっていたのだけれど。

私の気持ちを知ったら、律はきっとそれに合わせてくれようとする。
幼馴染として接してきた年月で、そのことはよく分かっていた。

だから本当に大切なことは、
律が自分で答えを出すまで何も言わずにおこうと決めていた。

バンドのことも、……私たちの気持ちのことも。


「……だから、あの不意打ちはホントびっくりした」

「……」

律はまだ耳を赤くして黙ってまま、ケトルを炙っていた火を止めた。
ふたつのマグカップに沸騰した湯を注ぎ、
湯を少し冷ますためケトルを一旦ガス台に戻す。

「律?」

「……」

「律ってば。返事してよ」

「るさいっ。言うなって言ったのに」

どうやら本当に拗ねてしまったようだ。
しかし拗ねながらもきちんとコーヒーを淹れる準備を進める姿に
ああ可愛いなあ、なんて思ってしまう。

私はにやけそうになる口元を引き締め、手にしていた布巾をシンクの上に置いた。

一歩半ほど近づいて彼女の肩に左手を乗せ、少し力を入れて引く。
上半身をこちらに向けさせても顔は背けたままの強情さに少し笑って、
りつ、とその名を呼ぶ。

ほんの少しこちらを向いた彼女の唇に、軽く触れるだけのキスをする。
柔らかい感触が離れたところで、ゴメン、と謝った。

律は少し眉を寄せて私を睨んでから、ふ、と表情をやわらげた。

「あの時のこと言うのほんとにやめろって。恥ずかしいから」

「もう言いません」

「ニーヤーニーヤーすーんーなー」

「いひゃい、いひゃい」

律の指が私の両頬をつまんで、強く横に引っ張る。
ごへんひゃひゃい、と間の抜けた発音で謝ると律は一瞬笑いをこらえ、
けれど結局我慢しきれずに声を上げて笑った。



「……なあ、明日どうする?」

武道館ライブの打ち上げ写真をめくる手を止めて、顔を上げる。
明日は一日オフで、早急に片付けなければいけない用事もない。

「頼まれた歌詞、まだ出来てないしなぁ……」

「だから、根詰めるなって」

「そうだけど」

最近は自分達の歌だけでなく、
時折他のミュージシャンが唄うための歌詞を依頼されるようになった。
とても嬉しいことなのだけれど、そのぶんプレッシャーも大きい。

「あっ、そだ」

「なに?」

「桜高行かない?さわちゃんと和に渡す写真持って」

「え、」

「夢の話聞いたら、なんか行きたくなっちゃって。澪の気分転換にもなるし」

どう?と、律がキラキラした眼で私を見る。
その表情を見せられたら、もう断りようがない。

「じゃあ、明日何時に出る?」

「んー、実家にも顔出したいし、今日行っちゃうか」

なっ?と笑った律に、私はそうだな、と口角を上げて頷いた。


…………

地元にいちばん近いインターチェンジを降りて、幹線道路に繋がる交差点を左折する。
ラジオから流れるJ-POPに、運転席でハンドルをさばく律の鼻歌が乗る。

「律、流行りの歌けっこう知ってるよな」

感心してそう言うと、まあこれもお付き合いの一環?と前を向いたまま律が応えた。
ラジオは20時の時報を鳴らし、車窓には街灯とテールランプの光が流れる。

「お、」

前置きなく流れ始めたキーボードの旋律に、ふたりの声が重なった。
間もなくして、唯のヴォーカルが車内にふわりと広がる。

「もう解禁になったんだな、新曲」

「そういや、憂ちゃんがそんなこと言ってたっけ」

指でトントンとハンドルを弾きながら、律が応える。
思いがけないタイミングで自分達の曲を聴くのは、なんだかくすぐったい。
ノッてきた鼻歌にコーラスを重ねてやると、律はちらりと私を見て照れ笑いした。

いくつかの交差点を越えるうちに窓の外には見慣れた風景が広がり、
ほどなくして私たちの母校が見えた。

桜高の敷地内は既に最低限の灯り以外が落とされ、
夜に溶け込むようにたたずむ校舎がぼんやりと見える。

「明日、何時にする?」

「できれば授業中のほうがいいよな」

混乱を避けるために……と口には出さなかったけれど、
頷いた律を見るに、同じことを思ったようだ。

「じゃ、午後の授業が始まった頃にしようか」

「そうだな」

「いきなり行って、さわちゃんびっくりさせてやろうぜ」

語尾に音符を飛ばすような口調で、律がニヤリと笑う。

「事前連絡なしじゃ入れないんじゃない?いくらOGでも」

「うーん、そだな。じゃあ和に連絡しとく?」

「電話してみる」

ジーンズの後ろポケットに入れた携帯を抜き出して、
アドレスをスクロールして和の名前を表示する。
発信ボタンを押して耳に当てる。5つ数えたところでコール音が途切れた。

『もしもし、澪?』

「こんばんは、和。この間はありがとう。今大丈夫?」

『こちらこそ。大丈夫よ』

「いま律と地元に戻ってきてて、明日桜高に行こうと思うんだけど」

『そうなの?何時頃?』

「えっと、一応午後の授業が始まった頃で考えてる。長居はしないよ」

『そう、分かった。5限目だと私は授業に出てるけど、守衛さんに伝えておくわね』

さすが和、話が早い。
ありがとうと伝えて、二言三言他愛もない話をして、それじゃ明日と通話を終えた。

「マナベセンセー、なんだって?」

「守衛さんに伝えておいてくれるって」

「そっか」

3年間通った通学路は、車に乗ればほんとうにあっという間の距離だ。
律はハザードを焚いて、私の実家の玄関前に車を停めた。
助手席から降りて後部座席に置いたバッグを引っ張り出し、ドアを閉める。

助手席側のウインドウを下げて、律が少し体を乗り出して私を見上げた。

「じゃ、明日13時前に迎えにくるよ。今日は早く寝ろよ?」

「わかった。気をつけて」

おやすみと挨拶を交わして、見えなくなるまで律の車を見送る。
ほう、と一息吐いて振り返ると、玄関のドアから顔を出したママが
お帰り澪ちゃん、と満面の笑みで私を出迎えてくれた。


2
最終更新:2011年03月25日 19:12