熱っぽい。
寒気がする。
喉が痛い。
これは風邪だ。
間違いない。
体がいつものように動かない。
ベッドから起き上がる事すらままならない。
「梓ー、起きなさーい。」
お母さんが私を起こしに来た。
いつもの私なら「はいはいわかった」と適当にスルーしながら布団から出るだろう。
でもそれはできなかった。
「梓、どうしたの?なんか顔赤いわよ。…ってすごい熱じゃない!」
「うん…風邪みたい。」
絞り出してやっと出た声はこの上なく醜いものだった。
「大丈夫?声すごく変よ。」
「そうなの。喉もすごく痛い…」
「熱測ってみる?」
「うん。」
熱を測った。
9℃1分だった。
「こんなに出てたなんて…」
「とにかく今日は休んでなさい。夕方にお医者さん行きましょ?」
「演奏会はどうするの?」
「申し訳ないけど参加は取りやめかしらね…」
「気にしないでいいから、行ってきてよ。」
「こんな高熱を出している我が子をほっておいて遠くになんていけないわよ…」
「うん…」
お母さんは扉を閉め、部屋から出ていった。
憂にはノートを取ってほしいとメールでお願いした。
日頃から真面目な憂はノートも綺麗で見やすい。
もう一人の友人は…うん、アレだ。
今のガラガラ声を録音して、治った後に聞いたら、自分でも嫌悪感を抱くだろう。
そんな、醜い声。
今の私にバンドのボーカルなんて到底務まらない。
先輩たちの卒業後は、私が部長となり、新たな軽音部を作り上げた。
憂と純、そして新たな二人の仲間。
新入部員であり、後輩だ。
彼女たちの前では、「尊敬に値する、真面目な部長」であろうとした。
いや、今を思えばただ「演じていた」だけなのかもしれない。
ティータイムはほどほどに、練習は熱心に。
私は部員たちの絆と腕を一気に高め、先輩たちの強い絆が産みだした「放課後ティータイム」に一刻も早く追いつこうと必死になっていた。
そして、無理をし続けた結果がこれだ。
情けない。
皆が自分のペースで頑張ろうとしているということは自分でもわかっていたはずなのに、私だけが早急に「結果」を得ようとして空回りした。
入部したばかりの頃に、憂や純の前で「律先輩は部長らしくない」と言ったことがある。
私はその事を後悔している。
できるものならその発言を取り消したい。
律先輩は立派な部長である。
私なんかよりもずっとずっと部長にふさわしい。
律先輩は自然な形で皆に歩幅を合わせ、(ドラムは走り気味だったけど)皆の絆も腕もちょっとずつ、だけど確実に上達させていった。
そんな当たり前だけど、素晴らしい事を成し遂げた律先輩の代わりが私に務まるか?
答えはNOだろう。
良くも悪くもありのままでいた律先輩は尊敬に値する人だ。
本人の前では口が裂けても言えないが。
律先輩だけじゃない。
澪先輩やムギ先輩、唯先輩も同じぐらい尊敬に値する人たちだ。
澪先輩はスタイルもよく、ファンクラブの人たちから多大な人気がある。
胸もベースの腕も私が憧れを抱くに申し分ない人だった。
しかし、独特の歌詞のセンスや親をいまだに「ママ、パパ」と呼んでいたりと意外と可愛い一面を持っていたりもする。
ムギ先輩はいつも暖かい紅茶と美味しいケーキで優しい安らぎを与えてくれる、「放課後ティータイム」に無くてはならない存在だ。(本当に無くてはならない存在は私も含めた5人全員…とさわ子先生だが。)
話していると癒されるし、何よりも見ていて楽しい。
誰が一番素晴らしいかなんて私には決められない。
では、この四人の中で私が最も影響を受けた人は誰だと聞かれれば。
それは唯先輩だ。
私に「あずにゃん」という妙ちくりんなあだ名をつけたその人は、先輩であるにもかかわらず、ギター歴では私よりもはるかに「後輩」だった。
弦の換え方を知らず、音楽用語も全く覚えていない。
にもかかわらず、決して評価することのできない何かが唯先輩の演奏にはあった。
唯先輩はとても楽しそうに演奏していた。
唯先輩だけでなく、四人の先輩は皆笑顔で、心から望んで「自らの音楽」をめいっぱい表現していた。
両親の苦悩する様を見ていた私は、「仕事」「評価が全て」というイメージを演奏に対し抱いていた。
それゆえ、決してうまいとは言えないが「楽しい」演奏に出会った私は、これまでにない衝撃を受けた。
そして、入部を決意するに至ったのだった。
唯先輩と私は性格が全く異なる。
ギターの経験だって全く違う。
全く練習をしない唯先輩に呆れたことも一度や二度ではない。
「この人とは絶対にうまが合わない」とさえ思ったこともある。
でも、私はそんな彼女に知らず知らずのうちに惹かれていった。
私はいつしか「決してうまくはないけど楽しい演奏」が目標になっていた。
それは唯先輩への「憧れ」だったのだろう。
「あずにゃん」というあだ名も今では案外気にいっている。
これも本人の前では言いたくないが。
では、今の部長である私が部員に求めるのは「うまい演奏」と「楽しい演奏」のどっちだろう?
私の真面目な部分は「うまい演奏」を求め、私に「真面目な部長」を演じさせた。
そして、積極的に練習を推し進めた。
それが本来の自分だと私は思っていた。
しかし、風邪で倒れた時、初めて自分が「無理をしていた」と言う事に気がついた。
そして私が本当に望んでいるのは、「楽しい演奏」だということを確信した。
だが、今更方向転換なんてできるのだろうか?
昼食におかゆを食べ、休んだ。
夕方に近所の医者に行った。
風邪と診断された。
薬を処方される。
明日、明後日が休日なのでその二日間には絶対治したい。
私のため、部のみんなのため。
これ以上皆に迷惑はかけたくない。
「「「「お邪魔しまーす!」」」」
聞き覚えのある声がする。
「いらっしゃい。あがってあがって。」
母が皆を迎える。
「これ、どうぞ。つまらない物ですが。」
「いつもありがとうね。」
憂はやはり気配りがきいていた。
「あーずさー!見舞いに来たぞー!」
「純ちゃん、静かに!!」
純は相変わらずだ。
「こんにちは…」
「みんな…」
私のかけがえのない仲間たち。
皆心配そうな顔をしている。
「梓先輩!大丈夫っスか!?」
後輩その一。
担当はドラム。
能天気な奴で、律先輩ほどではないが、軽快なリズム感の持ち主だ。
「あの…インフルエンザなんでしょうか…?」
後輩その二。
担当はリズムギター。
内気な性格だが、演奏では結構目立っている。
「大丈夫…ただの風邪だから…」
今にも消え入りそうな声で後輩たちに返答した。
「うわぁ!!変な声っス!!」
「こら!」
純がたしなめる。
「世界の終わり、でしょうか…?」
「大丈夫だよ、きっと!」
憂は元気づける。
この二人はどことなく姉妹のように思えてくる。
今日の出来事について会話が弾む。
私は喉の痛みに耐えながらも会話に参加した。
皆と会話するだけで心がもうこんなにも和んでいた。
やっぱり笑顔が一番だ。
「あの…」
「どうしたっスか?」
「こないだはゴメンね。私、酷いこと言っちゃった。」
「そんな、別に気にしてないっスよ?それに私の方こそ未熟だったっスから…」
「う、うん…」
皆をすぐに先輩たちと比べてしまう。
私の悪い癖だ。
その所為で、後輩を傷つけてしまった。
今、やっとその事を謝れた。
しばらくして
憂が持ってきたお菓子をみんなで食べた。
まるで何時ものティータイムみたいだ。
憂や私が入れる紅茶はさすがに今は飲めないが。
「梓ちゃん、あーん。」
「ありがと。」パク
「相変わらず、妬けますなぁ。」
「ほんと、お似合いっスね。」
「いいなぁ…」
「「へっ!?」」
皆に茶化される私たち。
憂と私は顔を真っ赤にしていた。
「あ、そうだ。はい、これノートのコピー。机の上置いとくね。」
「あ、ありがと。」
憂からノートのコピーをもらう。
やっぱり丁寧で綺麗な見やすい字だった。
「それじゃ、私らはこの辺で!」
「あの、お大事に…」
「我々は空気を読んで失礼するっス。」
憂以外の皆は帰っていった。
そして、部屋には私と憂だけが残された。
「梓ちゃん…私達、二人っきりだね。」
「うん…」
私は憂、愛する人の顔を見つめた。
「私、替えの水枕持ってくるから。」
「あ、ありがと。」
私、
中野梓は
平沢憂が好きだ。
心から愛している。
そして彼女も私を愛している。
つまりは両思いというやつだ。
憂と「そういう仲」になったのはニ年になってすぐの頃。
以前から憂に恋をしていた私は、勇気を出して告白した。
そうしたら、憂も私に気があったらしく、付き合うことになった。
純や先輩たちもみな私たちを祝福してくれた。
唯先輩はすごく驚いていたが、結局誰よりも喜んだ。
そして、心からお祝いしてくれた。
唯先輩が大学に入ってから一人暮らしを始めた。
その理由は
「家から大学は若干遠い」
「自分一人で暮らしていけるようになりたい」
そして
「憂とあずにゃんがふたり一緒の時間をもっと作れるように」
なんだそうな。
「梓ちゃん、替えの持ってきたよ。」
「ありがと憂。」
「はいどうぞ。」
「あ…ひんやりしてて気持ちいい。」
「ふふっ、気持ちよさそう。」
「そうだ、熱測ってみよう。」
「はい、体温計。」
熱は、8℃7分。
少し下がっていた。
「月曜日までには治るかな?」
「たぶん大丈夫だよ。」
憂は私を元気づける。
「あと、してほしい事とかある?」
「ううん、何にも。でも強いて言うなら…」
「側にいて欲しい、かな。」
「わかった。」
憂が側にいる。
それだけで私はなによりも幸せだった。
これからもずっと側にいてもらいたい。
なんてね。
お菓子を食べた後だろう。
だんだん眠くなってきた。
そして私は憂に見守られながら静かに目を閉じた。
・・・・・・・・
どれだけの時間が経ったのだろうか。
私は目を覚ました。
カーテンから少しだけさしこんでいた日の光も完全に無くなっており、夜になったのだということが分かる。
「そんなに寝てたのかな…私。」
時計を見ると、夜の8時だった。
「梓ちゃーん。」
「憂?」
「あっ、起きてたんだ。これ、おかゆとお薬。」
「あ、どうも。」
食欲はあんまりない。
体力もそんなにない。
さてこれをどうしようか…
「ごめん、私…食欲ないんだ。だから…」
「めっ!」
「ふえっ!?」
憂に怒られる。
「だめだよ。ちょっとでも食べて栄養つけなきゃ。お薬も飲めないし。」
「うん…」
彼女の言う通りだ。
「そうだ。私が食べさせてあげる。」
「え、そんな…」
「冷ましてあげるから、あーんして。」
「わかった…」
憂は覚ましたおかゆを私の口に運び、私はそれを食べた。
やっぱり憂がいる時とそうでないときは雲泥の差だ。
辛いはずの風邪の時の食事も、憂のお陰でとても美味しいように感じられた。
「これ、お薬とお水。」
薬も飲んで、一息ついた。
でも、憂はそろそろ帰宅すべき時間かもしれない。
「そうだ、憂。もうそろそろ帰る時間でしょ?」
「え?」
「もう夜遅いし、私の事は心配しないでいいから…」
そうしたら憂は一瞬キョトンとした後、ニコリと笑って、
「私、梓ちゃん家に明日、あさってと泊まることにしたよ。」
「えっ?」
「だって、大好きな梓ちゃんを看病してあげたいから。」
「お父さん、お母さんにもOKもらったし。」
私の両親はこの連休中に、遠くで行われる演奏会に参加する予定だ。
私の風邪のせいで参加を取りやめるかもしれなかった。
が、憂が私を看病してくれることによって、安心して演奏会に参加できるだろう。
「でも、着替えは…?」
「それなら大丈夫。梓ちゃんが寝てたときに、いったん家に戻っていろいろ準備してきたから。」
「そうなの…わかった。」
最終更新:2011年03月27日 00:04