唯「このお菓子、おかしーし! どう? 私のダジャレ?」
澪「いや、どうって言われても……」
律「下手なシャレはやめなしゃれ」
唯「おお! 上手いねりっちゃん」
律「……ダジャレを褒められるのってなんか恥ずかしいな。ていうか、何で急にダジャレなんて言い出したんだ?」
唯「いやー、実は昨日読んだ本にさ……うっ」ズキンッ!
唯「あ、あれ?」
梓「どうしたんですか? 唯先輩」
唯「う、うう……い……痛い」ガタッ
紬「どうしたの? 大丈夫? 唯ちゃん!」
唯「う……あ……」
澪「ゆ、唯!」
律「誰か、えっと、梓! 先生よんでこい!」
梓「は、はい!」ダッ
1月14日
平沢唯は少々不機嫌だった。急に心臓が痛くなって倒れた後、気がついたときには鼻に妙な形のチューブが付けられていた。
確か、カニューレとかいった名前だったはずだ。看護師さんがそう呼んでいるのを聞いた気がする。
鼻がかゆい、チューブのせいだ。腕もかゆい、点滴のせいだ。頭が重い、病室独特の雰囲気のせいだ。
今日の昼には、両親と憂がお見舞いに来てくれることになっている。そのときに自分の病気についても説明されるはずだ。
まあ、自分は健康優良なので、それほど重い病気ではないはずだ。大丈夫、大丈夫。
「大丈夫……だよね……」
1月19日
平沢唯が突然倒れて病院に搬送されてから数日がたった。
ガヤガヤとうるさい休み時間の教室で、律と紬は間に机を一つはさんで向かい合って座っている。
「なあムギ、唯の病気って、やっぱり重い病気なのか? 病名を聞いても私にはさっぱりなんだけど……」
律のいつもの元気の良さはなりを潜めている。表情もどこか暗い。
「……軽くはない、いえ、そうね……重い病気だわ。心臓病だもの」
「重いって……でも、あれだろ? 手術すれば治るんだろ?」
焦燥感が押し寄せる。律は背中に氷の塊でも突っ込まれた様に、ぞくりとした。急に酸素が薄くなったみたいに呼吸がしづらい。
「治るわ。治るに決まってる」紬は自分に言い聞かせるかのように呟いた。
「だ、だよな。あー、良かった。うん、唯は治るに決まってる! 大丈夫だ!」
「ええ、そうよ。治るのよ。そう決まってるんだもの」
紬の瞳には、妙な迫力があった。その瞳をみて、律は不思議と安心している自分に気づいた。
1月24日
「ねえ、憂」唯はベッドに寝転んだままの態勢で、妹に話しかけた。
「なあに? お姉ちゃん」
「私、死ぬのかな?」
「……そんなこと言っちゃダメだよ。大丈夫、治るよ」
憂の言葉には何の保証もない。医者による自分の病気についての説明は正直言って半分も理解できなかったが、
それでも難病であることはかろうじてわかった。どうやら心臓移植が必要であるらしいことも。
「ドナーが見つかって、心臓移植を受けられれば、また学校にも通えるようになるよ」
憂は必死に励まそうとしてくれているが、日本で心臓移植を受けるのが難しいことなんて日本人なら誰でも知ってる常識だ。
ならば海外に行けばいいのかと言えばそういうわけでもない。心臓移植を待っている患者に対して、ドナーが圧倒的に少ないのだ。
自分が死ぬ前にドナーが現れる可能性なんて、1%にも満たないはずだ。
「憂、ごめん……一人にしてくれるかな」
「お姉ちゃん……私、漫画買ってくるね。お姉ちゃんの好きなやつ!」
マンガなんて読んでも気分が晴れる気はしなかったが、憂の気遣いがうれしかった。
2月5日
ギターを弾きたいと、唯は入院生活が始まってから節に思うようになった。
好きな時にギターを弾ける日常というのは、存外素敵で、大切なものだったようだ。
お菓子が食べたい、特にムギちゃんが用意してくれるおいしいケーキ。自分たちのバンド名の由来にもなった
放課後のティータイムは唯にとって最上のひと時だったようだ。
もっと生きたい、死にたくない。病院にいると、死がとても身近なもののように感じるのだ。死にたくない。もっと生きたい、もっともっと生きたい。
人はいつか死ぬからこそ、生きたいと思うんだ。それが、わかった気がした。まるで悟りの境地に達した気分だ。
普通で退屈で変わり映えがなくて、だけど素敵で刺激的で楽しい、そんな日々にもっと感謝しておけば良かった。感謝しなければならなかった。
「ギー太、どうしてるかな?」
今日の夕方、軽音部のみんながお見舞いに来てくれることになっている。その時にギー太を持ってきてもらうことにしよう。
「病院では、ギター弾いちゃダメだろうけどね」
2月10日
「ねえ……お母さん」
唯はベッド脇の丸椅子に座っている母親に話しかけた。
「なに? 唯」母は自分の手を唯の手に重ねながら、優しい声音で答える。
「私、ちゃんと死ねるのかな? ほら、死ぬのなんて初めてだし」
「……唯、冗談でもそんなこと言わないでちょうだい」
「あはは、病人専用ギャグだよ」唯は目を細めながら、母の顔を眺めた。
唯の笑い声は乾ききっていて、生気が感じられない。その顔に無理やり浮かべられた笑顔をみて、
唯の母は心を締めつけられたような感覚をおぼえた。
「……唯、病気が治ったらどこかにでかけましょう? お父さんと憂と、それに和ちゃんと、軽音部のお友達も連れて」
「どこかって、どこ?」
「どこでもいいわよ? 唯の好きなところ」
「……良いなあ、行きたいなあ……」
本当に行けるだろうか、本当に私の病気は治るだろうか。
どこか頼りなく鼓動のリズムを刻む自分の心臓を信じることは、唯にはできそうになかった。
2月15日
唯は音楽室で、ギー太を肩に下げて立っていた、傍らには軽音部の面々も一緒だ。
紬がいつも入れてくれる紅茶の葉の香りがかすかに漂っていて、唯はなんだか気分が落ち着くのを感じた。
久しぶりにギー太の弦を弾いてみると、妙に懐かしい気分になった。
「ほんの一カ月弾かなかっただけなのにね。ひさしぶり、ギー太!」
もっと弾きたい、もっと練習しよう。そうだ、ムギちゃんの紅茶が飲みたい、ケーキも。
「ねえ、ムギちゃん、今日のケーキはなに?」
「唯ちゃん、唯ちゃんは、まだケーキ食べちゃダメよ」
「え? どうして?」
――――だって、唯ちゃんは――――
唯はそこで目が覚めた。どうやら楽しい夢を見ていただけのようだ。
目頭が熱くなり涙が出そうになったが、必死でこらえた。今日もみんながお見舞いに来てくれるはずだ、
泣き腫らした目を見せて心配させるわけにはいかなかった。
「……儚いものだね、人生なんて……」
人生は儚い。けれど、儚いからこそキラキラと光り輝いて見えるのかもしれない。
そう、まるで、カゲロウのように。
2月16日
夜、琴吹家の自室で、紬は深いため息をついた。そばには執事である斎藤の姿もある。
「それで、結局バチスタ手術はどうなの? 理屈は良いわ。 結論を教えてちょうだい」
普段の穏やかな表情とは違い、紬の眉間には深いシワが寄っている。
「バチスタ手術では、遠隔心不全回避率が低く、術後3年の心不全回避率は25%前後であると報告されています。
しかし、平沢唯様のご病気の治療法はバチスタ手術以外には……心臓移植しか」
「心臓移植……ね」
「はい、しかし、それは……」斎藤は顔を俯かせて口ごもる。
「現実的ではない、と」紬はまるで鷹のような眼で斎藤を射抜く。
「ねえ、斎藤? あるでしょう? ひとつだけ、すぐにでも心臓移植手術を受ける方法が」紬の口調は冷静だが、若干いらだちの色を帯びている。
「お嬢様……それは」
「合法かどうかなんてどうだって良いのよ。大切なのは唯ちゃんが助かるかどうか、ただそれだけ。すぐに手配しなさい、斎藤」
紬が幼いころから傍仕えとして見守り続けてきた斎藤には、今の紬には何を言っても無駄であるということが手に取るようにわかった。
「……かしこまりました。お嬢様のご随意に」そう言ってうなずいた斎藤は、足早に部屋をあとにした。
唯の病気は心臓移植を受けられれば劇的な回復が望める。
しかし、心臓を提供するドナーは世界的に不足しており、特に日本では心臓移植手術を受けるのは絶望的とされている。
ならばどうすればいいのか? 答えは簡単だ。
――――ドナーを用意すればいい――――
「待っててね、唯ちゃん。 全ド協なら、すぐにドナーが見つかるわ……」
3月15日
平沢唯はとても上機嫌だった。急転直下、一発逆転、自分に適合するドナーが見つかったのだ。
まさかこんなに早くドナーが見つかるなんて。自分はなんて幸運なのだろうか。
数日前には死にたくない、もっと生きたい、そんなことばかり考えていたというのに。
今は、もっと設備の整った病院に転院するためにストレッチャーに乗せられた状態で車に乗りこんでいるのだが、
付き添いで同乗するお医者さんが中々やってこないので待ちぼうけを食わされている状態だ。ああ、早くお医者さん来ないかな、
などと考えていると、白衣姿で年のころは40くらいの男が車の助手席に乗り込んできた。
「フーッ」男は車に乗り込むと急いでドアを閉めて、大きく安堵の息をついた。
「遅かったですね、待ちくたびれちゃったよ、先生」
「え? せ、せんせい?」男は驚いて少々どもりながら唯の方へと振り向いた。
「先生じゃないの? 白衣着てるのに」
「あ! えっと、そう、先生なんだけどね。うん、僕はお医者先生なんだけど、ちょっと乗る車を間違えちゃったみたいだ」
男はなぜかとても慌てているようだ。気が動転しているのか、必死に手をおたおたと動かすしぐさは、ちょっとコミカルで面白い。
「そっか、じゃあまだまだ私は待ちぼうけだね。主治医の先生が中々こないんですよー。なんかね、トランスターミナルっていう
最新設備の整ったとこに連れてってくれるらしいんですけど……」
「トランスターミナル? 奇遇だね、僕もトランスターミナルに行くんだよ。今から」
「ホントに? トランスターミナルってどんな病院なんですか? 主治医の先生は詳しく教えてくれないんです。最先端の医療が受けられるところだって言われたんですけど……」
唯の質問に男は顎に手を当てて数秒考え込んだ後、あっけらかんと答えた。
「ごめん。僕もよく知らないんだ」
「え? お医者先生なのに?」
「うん、お医者先生なのに」男はスパっと断言する。
「うーむ、変わった先生ですなあ」ストレッチャーに寝ころんだ態勢で、唯は腕を組んでぼやく。
腕を組む時に点滴のチューブが揺れてちょっと痛かった。
「ハハ……あのさ、君、名前は?」
「唯ですよ。平沢唯」
「僕はやす……安田です。よろしく」
「安田先生かあ、下の名前は?」
「……ヤスオです」
「安田ヤスオ?」
語呂合わせのような名前に唯は吹き出しそうになった。語呂のよさが気に入ったのか「やーすだー♪ やーすおー♪」と節をつけて口ずさんでいる。
「平沢さんは、その、どういう病気というか……」
「唯で良いですよ。そのかわり先生のことヤスヤス先生って呼ばせてね」
「や、ヤスヤス先生? えっと、じゃあ唯ちゃんはどこが悪いの?」
「しんぞーです。なんかしんぞーがビヨーンってなる病気なんだって」
「ビヨーン?」
「そう、ビヨーン」唯は両手をゴムを引っ張るように広げた。腕を動かすとまた点滴のチューブが揺れて痛かった。
もう腕を動かすのはやめよう、と少し反省した。
「なんかね、心臓移植の手術を受けなきゃいけないらしいんですよ。で、その手術を受けられるのは、トランスターミナルだけなんだって」
「……へえ、そっか、そうなんだ」ヤスオは何かに納得したように数回うなずいた。
「突然だけど唯ちゃんって血液型は何型?」
「血液型? AB型※ですよ」
「そっか、なるほどなるほど」
何がなるほどなの、ヤスヤス先生――と唯が言いかけた時、ふいにドアが細く開いて、隙間からスーツの男がこわばった顔を覗かせた。
「よかった、こちらにいらしたんですね。さ、行きましょう」
スーツの男に促されたヤスオはシートから降りながら、唯に小さく手を振った。
「じゃあね唯ちゃん。君は頑張るんだよ」
「え? 君はって?」
怪訝そうな表情の唯にニッと微笑みかけると、ヤスオは急いで車から離れた。
※本来の平沢唯の血液型とは異なります。
3月16日
トランスターミナルに転院した翌日、唯は一人ベッドの上で寝ころんでいた。
「暇だなー。ヒマでヒマでマヒしそう、なんてね」
「駄洒落かヨ、しかもチョット下手くそネ」いつの間にか唯の部屋に居た大男がぼそっと呟いた。
「うおう! びっくりしたー! だ、誰?」
「看護師だヨ、検温の時間ネ」そう言って看護師は体温計を差し出してきた。唯も慣れた手つきでそれを受け取り脇に挟む。
「もう、部屋に入る前に声かけてよね。看護師さん!」
「かけただロ、キミが聞いてなかっただけヨ」この看護師は純粋な日本人では無いようで、言葉に少々変な訛りが付いている。
「ねえ、看護師さん」
「なんだヨ」
「私、助かるのかな?」
「キミのオペは明日だったネ、大丈夫ヨ。ウチの医師は日本でトップクラスだからナ」
看護師は右目を閉じてウィンクしながら、唯を安心させるように言った。
「うん、そうだね。お医者先生を信じないとね!」
そういえば、昨日ちょっとだけ喋ったヤスヤス先生はどうしているだろうか、と少しだけ気になった。
「ねえ看護師さん、安田先生ってどうしてる?」
「ヤスダ先生? ダレダ、ソレは?」
「え? 安田ヤスオ先生だよ、昨日ここに来たと思うんだけど、知らない?」
看護師は考え込むようにこめかみに人差し指をあてている。そして、数秒なやんだ後にこう答えた。
「ああ、ヤスオ。なるほどネ、彼のことかヨ。アノ人は、アレだ、入院してるヨ」
「え! 入院してる? どこか悪いの?」
「ああ、ワルいといえばワルいが……まあ、キミが気にするようなことじゃないヨ。キミは自分の病気治すことだけかんがえろヨ」
「え、でも」
「この話はオワリ。キミはキミのことだけ心配してればイイヨ」
看護師の語調には有無を言わせぬものがあった。唯は気になったがこれ以上聞いてもこの看護師は答えてくれないだろうなと
思い、質問するのはやめておいた。
5月21日
白を基調とした病室で、平沢唯はベッドに座ってマンガを読んでいた。
「うーん、このマンガ飽きちゃったよ。新しいの読みたいなあ」
その時、スライド式の病室のドアがガラリと開いた。
「おーす、唯! 今日もお見舞いに来てやったぞー」
「あ、りっちゃん! おーす!」
現れたのは律だった。後ろには軽音部のほかの面々の顔も見える。
「唯先輩、調子はどうですか? 手術からもう二カ月ほど経ちましたが」
後輩の梓は心配そうに唯の顔を覗き込んだ。しかし、そんな風に心配されるほど体調が悪いわけではないのだ。
「大丈夫だよ! 元気有り余ってるんだもん、それに、もうすぐ退院できるよ!」
唯は鼻息荒く捲くし立てた。元気だということを示すように、座ったまま空手の正拳突きの真似事をしている。
「だめだぞ、唯。安静にしてなきゃ」澪は唯の体を気遣ってひざ下までめくられていた掛け布団をかけなおした。
「元気そうで何よりだわ、唯ちゃん、退院したらまた一緒にケーキ食べましょうね」
「ありがとうムギちゃん! あー早くケーキ食べたいなあ、お医者さんに止められてるんだよー」
「まったく、唯は入院してても相変わらずだな」
澪は呆れ混じりに呟いた。しかしその顔には明らかな微笑みが浮かんでいる。
「この分なら今すぐにでも退院できるんじゃないか?」
「うん、すーぐ退院しちゃうからね! みんな、待っててね」
最終更新:2011年03月29日 02:46