くるくると部屋の鍵を指先で遊びながら、ゆっくりと足に力を入れる
立ち上がろう。そう思ったが、ふと眩暈のようなものを覚えた
本当にくるくると回っていたのは、鍵なんかではなく、自分の意識のほうだった

「着信は……どうせ唯だろうな」

ゆらっと体を揺らしながらポケットから取り出した携帯を見ると、それは3件入っていた
時刻を目で辿る
9時……10時30分……10時32分

ははっ、なんて分かりやすいやつだ
自然と笑みがこぼれる
かけてきた用件はこの時間帯ならば、どうせ授業のことだろう
たしかこの時間は唯と一緒の講義だったはずだ。

携帯を操作して、通話ボタンを軽く叩いた
そっと耳にあて彼女がでるのを待つ

『もしもし、りっちゃん!!』

たった一回のコールで唯が電話に出た
こころなしか少し慌てた様子だ
声のトーンも不自然に上がっている

「あぁ唯か。悪い、電話もらってたみたいで」

『電話にも出ないから心配しちゃったよ。どうしたの、今日は一限目に出てこなかったけど……」

「ちょっと、体調が悪くて目覚めも悪かったんだ」

嘘だ。自分でも体調が悪いかなんて感覚は麻痺している
目覚めが悪かったどころかまともに眠っていない

『ええっ、りっちゃん大丈夫なの!? なんなら今から行こうか?』

「いや、いいよ。もう大丈夫だ。それに唯が来たってどうしようもないだろ?」

自然とその口から笑いがもれていた
唯には何度も救われているきがする
それほど彼女には、私を安心させるなにかがあった

『あぁ、ひどいよりっちゃん。私だって病人の看病ぐらいできるよ。おかゆだってつくれるしね』

「はは、ありがたいけどもう大丈夫だ。昼には行けるだろうからさ」

『うーん、本当に大丈夫? 最近のりっちゃん………うんうんなんでもないや」

唯にもなにか悟られている
自分でも隠し続けるのは無理だろうと思っていた。
でも、それでも誰も知らないほうがよかった
タイムリミットも足音を立てながら近づいてきてるのかもしれない
できればロスタイムを望みたかった

「なんだよ、気になるな」

『うーん、気のせいかもしれないからいいや。それじゃぁ、私次の授業もあるからきるね」

「あぁそうだ、唯」

『?』

彼女が電話の向こうで首をかしげているのが分かった

「普通おかゆに目玉焼きはのらないぞ」

私の名前を呼びながら、ひどいと泣きまねをした彼女の声が通話口から響く
その訴えを最後まで聞くことなくきった
携帯を再びポケットにしまう
いつのまにか眩暈のようなものは、消え去っていた



大学に入ってもなにも変わることはないと思っていた
私達は変わっていなかったのかもしれない。
しかし周りは私達を待っていてはくれなかった
それでも私はかわらずにいられるとおもっていた


大学に入ってからも私達はやはり音楽を続けていた
入ろうとした軽音楽のサークルには、すでに先輩がいた
私達と同じで4人で続けてきたらしい

――あなたたちが入ってくれなかったら、私達が抜けたあとこのサークルは潰れていたわ
先輩のうちの一人がそういっていたのを覚えている
今年で引退のため先輩たちにとっては、最後の年だった

入ってから分かったことだが、先輩達の素行はあまり良いとは言えなかった
それでも唯は

「わぁ、私達にとってはじめての先輩だね」

と言って嬉しそうにはしゃいでいた。
女子大学と言っても、中にはそんな人たちもいるだろう。
そう思って気にしないことにした。それでも私は構わなかった


ある日1人で部室に入ると、揺ら揺れとした白いものが漂っていた
煙――先輩達の年齢ならば年齢的には許されていたもの
だが、部室棟でのそれは禁止されていたはずだった
それにそれはお世辞にも喉や肺にいいとは言えない
ボーカルの唯と澪にとっては害悪そのものだった
――二人が来る前にやめさせて、換気をしなければ

「先輩、すいません。部室内での喫煙はやめてもらえませんか?」

荒立てないようにできる限り丁寧に言った
先輩も「あ、ごめんね」と言ってそれの火を消した
予想よりも穏便にことが済んだ
すると先輩が自分の荷物を持ち、立ち上がった

「先輩、練習していかないんですか?」

最近、めっきり練習しているところを見なくなった
だから、ふとした疑問だったが尋ねてみる
――あぁ、他の子も来てないしね。それにこの後飲み会なんだ
彼女は嬉しそうに言った。本当は特に興味もなかった
「田井中さんもきたい?」そう言ってニヤついた笑みを浮かべる
私がそれにNoの意思を示すと、「そう残念」と肩を落としそのまま部室を出て行った

換気のために全開にした窓から顔を出すと
まだ夏前だったと言うのに、すこし暑苦しい熱気がお腹の中を満たす

少し経つと、部室にムギと澪が顔を出した
どうやら先ほどまで同じ授業だったらしく一緒に来たようだった

「どうした律?」

澪が私の様子を見て、首を傾げた

「いやぁ、今部室内に雀が入っててさ、逃がしてたんだ」

窓の外を指し、どうでもいい嘘をついた
別に窓を開けていた理由なんてどうでもよかった

「そうだ、お茶入れるわね!」

ムギが思い出したかのように言った後、
カバンを置き、ティーカップを取り出す

「あっー、みんな早いね。私が一番かと思ったのにー」

扉の外で一番遅れてきたやつがそんなことを言っていた
そのとき私達のティータイムははじまったばかりだった



朝ごはんとして前日に買って置いた菓子パンをかじった
味などどうでもよかった。
ただ栄養として体内に摂取する
糖が頭に回れば、やがてこの頭も活発に動き出す

ニュースの流れる携帯のディスプレイを見る
12月20日 12時30分
唯と電話してから、一時間以上が経っていた
そろそろ家を出なければ講義に間に合わない時間だが、
その前に一つ気付いたことがあった

――そっか、今週末はクリスマスイブか……

壁にかけられたカレンダーを見ると、その日には丸がつけられていた
おそらくあの丸の仕方は彼女だろう
なぜならそれは右周りの丸のつけかただったから

体から力が抜けるのが分かる
私の頬はゆるんで、笑いたがっていた
どうしようもないほど彼女に会いたかった

私は玄関へと向かう足を翻しもう一度ベッドへと向かった
遅れてきた睡魔が私を手招いている
パタンと倒れこんでしまえば、何もかも忘れられる気がした



「律は嘘が下手だからな」

高校を卒業して大学に入るまでの休みは長い
やることもとくになく、彼女と街中をぶらぶらとしていた時彼女が言った
彼女の困ったように笑う顔を見て、そのとき私はなにをおもったのだろうか
今ではもう思い出せない

「だから、今はなにもいわなくていい。こっちも不意打ちだったからな」

そういうと彼女は長い髪を押さえながら、私に微笑んだ
だからこそ私はその言葉になにか返さなくてはいけなくて
でも返すことはできなかった

常識という壁はそれほど厚かった
まだたかが高校を出たばかりの私にその壁を越える勇気も壊す覚悟もあるはずがなかった
その点では普段泣き虫な彼女のほうが私よりずっと強かったのだろう

「行こう、律。時間がもったいない」

そして彼女は私の腕を引いて歩いていく
私の前をあるく彼女の顔はもう見えない
だからせめて並んでやりたくて、一生懸命に足を急がせるが
結局、そのときの彼女の顔を見ることは叶わなかった

まだ私が彼女に嘘をついていなかったときの話



淀んだ意識の中、清潔感のあるいい香りがした
次に気付いたのは、私の頭の位置が少し高いこと
ベッドに倒れこむように寝たのだから、まくらなど気にしていなかったはずだ
瞼をゆっくりと開けていく

「あっ、りっちゃん目が覚めた?」

目の前にはムギの整った顔があった
その顔はどこか嬉しそうにしている
なにかいいことでもあったのだろうか

「むぎ……?」

「あ、かってにあがっちゃってごめんなさい」

「いや、いいよ。それより……」

ムギが顔を傾ける
私が何を言いたいのかもわかってない顔だ

「なんで膝枕なんだ?」

「うふふ、りっちゃんがとても寝苦しそうにしてたからよ」

ムギが優しく微笑んだ
枕でも挟んでくれればよかったのに
そう思ったが言わないことにする
もう少しだけこのままでいたかったから

「……足、痛くないか?」

「大丈夫よ、りっちゃん軽いもの。それにね、私膝枕してあげるのが夢だったの♪」

「おーい、それは私の脳みその容量が足りないってことか」

「さぁ、それはどうかしら」

ムギが笑う。私もつられて笑った
すると、いつのまにか笑うことが自然にできていた
ほんのつかの間の本当。渇いていない笑み
ただ可愛く舌をだしたムギはとても絵になっていた

ふとそのまま視線を窓へと移した。
宵闇が空を覆う時間帯になっていた

「りっちゃん?」

「悪いな、ムギ。すぐにどくよ」

勢いよく体を起き上がらせる
ムギが遠慮しなくてもいいのに、と呟くように言っていた

「そうだ、りっちゃん。紅茶飲む?」

かって知ったる人の家――そんな言葉がふと頭に浮かんだが、
それは普段からムギにお世話になっている証拠なので、少し情けなくなった

「あぁ、いいよ。私が入れるよ」

ムギが立ち上がろうとしていたので、私がやるといい足に力を入れた
まだ本調子とまではいかないが、大丈夫だろう と思った
が、体に重みを感じた
それは真正面からくる重みで……
ムギが私をまきこみながらこちらに倒れこんでいた

「あははは……ごめんなさい。やっぱりちょっと足が痺れちゃったみたい」

ムギが申し訳なさそうに言う
私とムギの距離が近い
お互いあと10cmも顔を上下させれば、重なってしまう
意識してしまう距離――自然と唇に目が言った
どこか艶かしく柔らかそうなそれから目が離せなくなる

「………」

その沈黙はどちらが作ったものだろうか
私達はお互いになにかの呪いにかけられたように動けなかった

「ねぇ、りっちゃん……」

彼女がその唇を動かし、どこか切なそうに言葉をつくった
それでも私は何も言えずにただ待つだけ

「私がこのままキスしちゃったらどうする?」

魔性の言葉だった
正直に言えば、悪くないと思っている自分がいた
抗うことに疲れていたのかも知れない
狂うことに憧れていたのかも知れない
わたしのちっぽけな機械仕掛けの脳にそれはどんな潤滑油となるだろう
だから私は

「……ぷっくくく……ムギ、顔に冗談って描いてあるぞ」

いつもどおりを装った
今重要なのは、この空気に飲まれてしまわないこと
取り返しのつかなくなる前に

「……あは、ばれちゃった♪」

ムギがいたずらがばれたときの子供のような顔で笑い、
私の上から退いた

「あぁ、でもちょっとクラっと来たぞ。魔性の女だなぁムギは」

「ああーりっちゃんひどーい」

それは私とムギのいつもの距離だった
冗談を交えながら話すいつもの会話
それが彼女との心地よい距離
彼女にとってはどうかは知らない
ただ私にだけ都合の良い距離

「それにね、私本当は自分からするより、相手にしてもらいたいなー、なんて」

「ムギ、男は狼だって澪が言ってたから気をつけろ。そんなこと言ってたら襲われて食べられちゃうぞ」

「りっちゃんは食べてくれなかったね」

「ああ、私は女だからな」

「りっちゃん、あっさりと流したね。もうちょっとこう「私は女だー!」って感じになるかと」

「私は女だーっ!」

「そうそう、そのほうがりっちゃんらしいわ」

そしてムギが立ち上がった
そのままキッチンのほうに歩いていくのを見送る
結局、紅茶を入れるのは彼女に任せることになりそうだ


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最終更新:2011年04月01日 23:06