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「うまいな……」
口元に持ってきたティーカップからその液体を流し込んだとき
そんな言葉が自然と漏れていた
私がいれてもこうはならないだろう
そういう意味では、ムギに紅茶をいれてもらったのは正解だった
自分でこれほどおいしい紅茶が入れれるのだ。
私のいれた紅茶など恥ずかしくて出せたものじゃない
「同じティーバックで入れたものとは思えないな」
「ふふっ、別にそんな難しいことじゃないわ。りっちゃんもやってみる?」
紅茶にはおいしくいれるコツがあるらしい
例えば、お湯の温度だとか、器を温めておくことだとか、蒸らす時間だとか
そういうものがあることは知っていたが、詳しく知ろうとは思わなかった
「うーん、いいや。私にはなんか似合わないしな」
別に教えてもらうことが億劫だったわけではない
ただ本当に私には似合わないと思っただけだ
ムギがそう……と残念そうな顔をして、向かいの席に腰を下ろす
彼女が一口紅茶を飲むのを見届けてから、私も残りの紅茶を胃の中に流し込んだ
久々に満たされた気がした
「そういえば、色々あって聞いてなかったけど、ムギはなんでこんなところにいるんだ?」
「りっちゃん、自分の住んでる所を、こんなところ、だなんていわないほうがいいわ」
メッと珍しく彼女が怒った顔をする
待望の一人暮らしだった。
けれど、実際にやってみれば肩透かしをくらった気分だった
自由が増える――なにが自由だ。考える時間が増えただけじゃないか
誰を気にすることもない――逆だ。一人でいるからこそ誰かを考える時間が増えた
好きなものを食べれる――味のしない好物はすでに好物ではなくなっていた
時間が増える――1日は24時間だ。たかが一人暮らしで魔法使いにでもなったつもりか
「今日りっちゃん、学校来なかったでしょ? だから電話したんだけど出ないし……」
たしかムギとは昼間から同じ授業だったはずだ。
携帯をひらく。
着信とメールが10件ずつ入っていた
その8割が唯だ
さっと目を通していく
「で、唯ちゃんに聞いてみたら、りっちゃん体調が悪くて朝からきてないって言うじゃない」
ムギからもメールが入っていた
――りっちゃん大丈夫?
目の前にいる彼女に心配をかけたことを申し訳なく思う
いい友達を持った。私はその点では最高に恵まれていた
「それで尋ねてきてみたら……りっちゃん?」
ムギのメールの後には彼女からのメールがあった
澪――幼馴染、私が一番よく知る人、私を一番よく知っている人
そして私が一番――嘘をついている人
嫌な予感がする
受信フォルダを見て固まってしまう
開きたくない気持ちと、開かなければいけない気持ちが天秤の上で鬩ぎ合う
たった1通のメールが私の心臓を握り締めていた
やがて天秤は傾いた
手の先の感覚がないが、ゆっくりと動いていく
義務感に似たそれが私を操っていた
――先輩たちにつかまった。部室にベース置いたままだから、頼む
お腹の中に入った温かかった紅茶の温度がさっと引いた
くるりくるりと狂ったように意識はまわる
杞憂であってくれ。願う
お前はなにも知らなくていい。願う
それは私のエゴだから。私は私を呪う
「りっちゃん!? 顔が青いわ」
気付けば私は椅子を倒すほど勢いよく立ち上がっていた
ハンガーにかけていたコートに手を伸ばす
ムギが驚いた顔をしていた
なんといってごまかそう
「ムギ、私ちょっとコンビニまで言ってくる」
陳腐な言い訳
バレバレの嘘
「それなら私も……」
「ムギ!!」
思わず怒の感情に似た声を上げていた
そんな顔をしないでくれ
悪いのは全部私でいい
だから、そんな心配そうな顔をしないでくれ
「……っと、実は家の鍵失くしちゃってさ。ちょっと私がいない間留守を任されてくれないか?」
その言葉はいつもの私の声だった
ずるい奴だ。そういえば彼女が断れないことを知っている
そして私はゆっくりと玄関まで歩いていく
ムギが黙って私を見送っていた
「なぁ、ムギ……あの時、あと10秒あのままだったら私、狼になってかも知れない」
一度だけ振り向いてそんなことを言った
ムギがポカーンとした顔をする
その顔の次の反応を待たずに、もう一度背中を向けた
走り出した背中越しに彼女の声が聞こえた
「りっちゃんは嘘が下手なのか、上手なのかわからないわ……」
それはかつてあの場所で彼女が私に下した評価とは違うもの
ムギの困ったように笑う顔が頭に浮かんだ
▼
…………
………
……
11月、大学の学園祭があった
先輩達にとっては最後の演奏、私達にとっては最初の演奏
それがたとえ先輩達の前座としての意味でも、演奏できるのは楽しかったし嬉しかった
だから、普段練習を怠けがちだった私と唯もそのときは必死に練習をした
――ボーカルはやらないからな。唯だからなっ
澪がまた泣き言を言う
もはや、それは私達にとって定番となった会話
結局、やるはめになるのにそんな抵抗がひどく微笑ましい
そのときには、先輩達はほとんど部室に来ることはなくなっていた
就職活動とかもあるんだろうと思って気にしなかった
それでも、練習はちゃんとしているんだろうと思っていた
学園祭、私達の演奏は5時からだった
野外ステージの上でのライブだったので、少しひんやりとした肌寒さを感じたが
演奏前の緊張感がそれを忘れさせてくれた
「がんばって」
舞台袖で先輩達が気楽そうに声をかけてくれたのを覚えている
舞台に立つと観客の顔がぼやけて見えた
自分が緊張していることが分かる
その中に、見覚えのある顔がいくつかあった
高校時代に澪のファンクラブ会長だった先輩
唯の幼馴染と妹
そして私達の大事なバンドメンバー
――がんばってください
彼女の声は聞き取れなかったが、唇のうごきでなにを言いたいのかがわかった
MCをしていた唯が、思わず手を振りそうになっていた
カッカッ
ソフトメイプルのスティックを2度鳴らした
これが始まり。
そこから先はよく覚えていない
唯が大きな声でありがとうございましたと告げた
観客達の拍手が耳に残る
気付けば額に汗が浮いていた
それを拭いながら、澪のほうを見ると少し震えていた
そして10分の幕間が訪れる
この間にここを抜けて、次の準備をしろという意味だ
袖に抜けていく時にすれ違った先輩達は無言だった
それがどういう意味をもっていたのかわからない
私達4人は先輩達の演奏を聞こうと思い、観客席へと回った
考えてみれば、先輩達のまともな演奏を聞くのははじめてだった
観客席に行くと唯が一目散に梓に抱きついた
楽しそうに「どうだった?」と聞いている
「凄かったです。……でもなんかちょっぴりおいていかれたみたいで寂しいです」
少し寂しそうな顔で笑いながら梓は言っていた
「もうあずにゃんってば、かわいいー」
唯が梓をさらに強く抱きしめる
「まぁ、年齢だけはしょうがないもんな。それに今度はスタジオでも借りてやればいいさ」
「おっ、澪やる気だなぁ。よっし次も澪と唯とでボーカルな」
「なっ……!?」
「澪ちゃん、がんばろうね」
困惑する澪の手をとった唯がつないだ手を上下する
恥ずかしがりやの彼女はたった今舞台で歌っていたというのに、やはり慣れないようだった
「あ、はじまるみたいですね」
梓が言ったとき、ステージにライトが灯った
前置きなしに、それははじまろうとしていた
ドラムがカツカツとスティックを鳴らす――ベースがまごついていた
テンポの遅れたリードギターが弦を慌ててはじく――ズレは埋まらない
リズムギターが必死にそれに続こうとする――歪んだ旋律が不協和音を作る
「……あの人たち……あんまりうまくないですね……」
そういったのは梓だったろうか。それとも観客の誰かだっただろうか
澪をみても、唯をみても、ムギをみても誰もが沈黙を保っていた
そして私もなにも言えなかった
観客がバラつき出す
酒で焼いた声。煙に犯された肺。
ボーカルが歌がどこか苦しそうに聞こえたのは私がそれを知っていたからだろうか
果たして先輩達にとっての最後のライブとはなんだったのだろうか
練習もしないで望む、その程度のものだったのだろうか
今はもうわからない。分かろうとも思わない
ただ彼女達の演奏は、それでも最後まで止むことはなかった
翌日、先輩達が顔をださないまま、サークルは私達のものとなった
どこか釈然としない気持ちのままだったが、このままでいるわけにもいかない
まだ新部長も決まっていないサークルだ
「さてと、部長は誰にするか決めようぜ。まっ、また私でも全然いいけどなっ!」
できる限り明るく言ったつもりだ
無理にでも空気を切り替えたかった
「え~、私でもいいんだよ~りっちゃん」
唯がふざけながらも言う
彼女にもどこか思うところがあったのか、いつもどおりのノリだった
「よしっ、じゃぁ私だな」
「あうっ、りっちゃん横暴~。」
唯が口を尖らせながら文句を言う
「まぁ、律でいいんじゃないか? 唯が部長ってなると……考えたくないな」
「やっぱり放課後ティータイムのリーダーはりっちゃんじゃないとね」
澪とムギの言葉に少し照れくささを感じる
頬は赤くなっていないと思いたい。
やっぱり唯がひどいと泣き崩れる真似をしていた
「なんだ律ー、照れてるのか?」
澪がニヤニヤとしながらこちら顔をうかがってきた
「うっ、別に照れてなんか……」
「うふふ、りっちゃんかわいいー」
「りっちゃんの照・れ・屋・さ・ん♪」
「だああああ、練習するぞ練習」
気まずくなった私はそういってスティックを持ち、ドラムに駆け寄った
やっぱり彼女達は笑っていた
微笑ましそうにしている彼女達が好きだった
なにより彼女が――
さらに翌日。雨の湿った匂い。
その日は前日の天気予報どおり土砂降りだった
どこか気分ののらない一日
講義終わりに部室へ行くと、そこに雨で髪を濡らした彼女がいた
髪をタオルで拭う姿はどこか艶かしく見える
「なんだ澪、傘もってなかったのか?」
「律……いや傘は持ってたけどこのとおりだよ。律は授業終わりか?」
「ああ」
見れば彼女の服の肩の部分も水にぬれ、色が変わっていた
それでもやはり被害が一番大きいのは髪の毛だろう
「髪……長いと大変だな」
「まぁ大変なのは分かってて伸ばしてたからなぁ」
澪が2枚目の真っ白なタオルに手を伸ばした
そしてその髪に当てようとしたとき
「髪、拭いてやろうか?」
すると少しだまった後、彼女は「お願いしようかな」と言った
――――
「なぁ、律」
彼女の細いサラサラとした髪に櫛をとおしていたとき
ふと彼女が零した
「先輩達、どうしたんだろうな」
言っているのは先日の学園祭のことだろうと分かった
だから
「さぁ……でも就活とかもあったし大変だったんじゃないか?」
嘘だ。誰のためでもない嘘。
彼女は別に知らなくていいと思ったためについた嘘
彼女たちが、お酒に溺れようとも、男に溺れようとも、煙に溺れようとも
どうでもよかった。それがたとえ学園祭の前日であったとしても
ただ、今澪がこちらを向いていなくてよかったと思う
――律は嘘が下手だからな
彼女は私の嘘を見破ってしまうから
「そっか。最後だったのに残念だな」
「そうだな……」
そういって私は澪の髪の毛の先に集中する
綺麗だな――同じ女として少し羨ましく思う
「そういえば、澪。またファンクラブできたんだってな」
今度はできるだけ明るい話題をふる
それも朝聞いたばかりの新鮮な
「うう……やめろ。その話はやめてくれ」
澪がうな垂れながら、今拭いたばかりの頭を押さえた
「まっ、私は曽我部さんが同じ学内にいる時点でこうなるんじゃないかと思ってたけどなっ!!」
「笑い事じゃないっ!!」
こうやって澪をからかうのは楽しい
小さな頃好きな子にいじわるしてしまう心理がよくわかる
……んっ? 好きな子……
自分の中でさらっと思った言葉が、ふと疑念を作る
「ふふっ、ああそうか――」
私はとっくにそうだった
ただ先延ばしにしてきただけ
「なんだよっ、律。なにがそうかなんだよ!」
「いやっ、なんでもないさ」
「なんだよー、気になるだろー」
言いながら振り返った澪にキスをした
突然起こった出来事にパチクリとする澪がひどくかわいく見える
「ん……」
口で塞いだ口を離すと、そんな色のある声が漏れた
彼女はいまだに放心状態だ
そしてゆっくりと口にその指を這わせた後
「なっ!!……り、りつ!?」
最終更新:2011年04月01日 23:08