梓「…ん?」

梓は、駅のホームの隅に放置してあった鞄を拾い上げた。


唯と梓は、その日、近隣の街に買い物に来ていた。

二人は目当ての物を買い、小洒落た喫茶店で軽食をとり、とても充実した休日を過ごした。

その帰り道の事だった。

唯「あずにゃん、どうしたの?」

梓「あ、いえ。落とし物があって…ちょっと、これ、駅員さんに届けてきますね」

アナウンスが、通過電車の到着を告げる。梓は、その鞄を駅員に届けようと、きびすを返して改札の隣の事務所に向かった。


汽笛の音。

がたん、ごとん、と、列車の近づいてくる音。気配。

それらをかき消すように、唐突に、バン、と、凄まじい破裂音。

梓「うわっ」

唯「お?あずにゃん、どしたの?」

始め、何が起こったのかさっぱり分からなかった。

鞄に遮られ、爆発の閃光も見えなかったし、目に見える範囲では、何も別状は無かったから。

手に、鈍い痛みを感じて、鞄越しに覗き込んで…梓は、始めてその惨状を目の当たりにした。

梓「うわっ。うわっ!嘘っ!嘘でしょ!?」

唯「あずにゃん?!」

梓「いやっ!いやあ!いやあああああ!」

絶叫。

唯「あずにゃん?!どうしたの?!どうしたの!」

梓「手!手が!手がっ!!いやあああ!!いやああああああああああああああ!!」

唯に背を向けた梓が、どさり、と、鞄の残骸を取り落とす。ぱたぱたと、血液が滴り、足下に赤い水玉模様を描く。

梓は膝をつき、凄まじい悲鳴を上げた。上げ続けた。

その叫び声を遮るように、ゴウッと、通過列車が通り過ぎる。

唯が、梓の背中を抱きかかえ、梓に何か訴える。が、それも、列車の騒音にかき消され、何も聞こえない。

周囲に散らばった爪や、骨の飛び出した、なにか見慣れない食品のような肉片。

それらは、間違いなく、梓のもので。

梓の指は、数本、申し訳程度に付け根の間接を残し、キレイさっぱり吹き飛んでいた。


全く持って、命に別状はなかった。

失血した血液は、精々50mlで、頭にも内蔵にも全く損傷がなかった。手以外に、傷一つなかった。

救急車で病院に連れて行かれた梓は、そこですぐに治療を受けて、その日のうちに退院となった。

それ以上、病院にいても出来る事がなかったのである。

医者は、断端形成がどうとか、湿潤治療がどうとか、よく分からない事を言っていたが、全く理解出来なかったし、全く頭に入ってこ
なかった。

ただ一つ、明確に理解出来た事は、「梓の指が無くなった」という事実だけだった。

ただひたすら、梓の身に起こった不幸を受け入れられず、梓自身は泣きわめき、唯もそれに倣うように、梓の身体に取りすがって嗚咽
を漏らし続けた。

梓の両手は包帯でぐるぐる巻きにされ、両手の先にボールでもつけたような、まるでドラえもんの様な形容になっていた。

傷が癒え、包帯が取れる頃には、指のない、ヘラのような両手が顔を出すだろう。

梓の両親もすぐに駆けつけ、梓を抱きかかえて号泣した。

唯は、大の大人の男性が大声で泣く所を始めて目の当たりにし、より一層、絶望感を募らせた。

怪我は治るもので、医者は凄くて。

医者じゃない大人も凄くて、だからきっと、梓の手は、誰かがどうにかしてなんとかなるんじゃないかと、心の奥底で無根拠に抱いて
いた唯の希望は、無惨に打ち砕かれた。

梓の手は、一生、治る事は無い。

現在の医学ではどうしようもなく、治らないレベルに、梓の手は損壊していた。

もう、梓が、あの見事なギター捌きを見せる事はない。出来ない。一生。

数百時間、いやいや数千時間、ひょっとすれば四捨五入すると一万時間に達するかもしれない、それだけの、人生の何分の一かを費や
した、梓のギターの腕前は、指と一緒に消滅してしまった。


いや、ギターどころか。最早梓には、日常生活すらままならない。そういう身体になってしまった。

慣れないうちは、一人で食事もできないだろうし、用を足す事すらままならないだろう。

箸はもちろん、スプーンやフォークも持てない。扱えない。

用を足す為に、下着を下げる事も困難だし、用を足した後、紙で清める事も難しいだろう。

両手の機能の殆どは、指が担っている。指以外の関節は、その殆どが、指を対象に近づける為に機能している。つまり、指を失った梓
の両手は、その機能の殆どを消失してしまった。

つまり梓は、両手を失い。

日常生活すら他人の介助が必要なレベルの、重篤な障害者になってしまった。

梓は、人生の内で最も輝かしい青春時代を、そしてその後の死ぬまでの人生の全てを、障害者として生きる事になった。


唯は、警察にいろいろ聞かれたが、その内容は殆ど何も覚えていない。

そして、警察に話す事など、実際、殆どなかった。

梓は、落ちていた鞄を拾っただけ。

親切心で。

他には何もなく、純粋に、鞄の持ち主を案じて。

梓は、何もしていない。

強いて言うなら善行を行った。行おうとした。それだけ。

それなのに。それだけなのに。

この仕打ちは。

他には、何も分からない。

分かりたくない。分かろうとも思わない。

ただ、ひたすらに、犯人が憎かった。

見つけ出して、殺してやりたい。それだけだった。


世間は、この悪質ないたずら、いや、犯罪行為に、恐怖した。

犯人は、捕まらなかった。

ニュース、新聞、あらゆるメディアがこの犯罪行為を世間に流布した。だが、そこに中野梓の個人名が出る事はなかった。

琴吹紬は、財閥の令嬢であり、その両親は経済界に影響力を持っていた。

紬は、両親を利用して、平たく言えば、メディアに対し圧力をかけた。

琴吹は、娘に懇願され、中野梓に対する、メディアの過度な接触行為を控えさせた。

その試みは成功した。

中野家には、数度、記者からの電話があっただけで、それも全て断ると、それ以上のコンタクトは無かった。


山中さわ子は、梓の直接の指導者ではなく、また、教育者として過度に熱心なタイプでもなかったが、この件に関してはその業務範囲を完全に逸脱して、梓のために尽力した。

安易な好奇心や自己顕示欲から、被害者の事を知ろうとしたり、外部に漏らしたり、そういった事が起こらないよう、さわ子は、慎重に、積極的に動いた。

また、梓が一日でも早く復学出来るよう、学校にも働きかけたし、他の障害者を受け入れ可能な学校にもコンタクトを取った。

梓がその気にさえなれば、多分、すぐに復学が可能だろう。それは、さわ子の努力の成果であった。

それ以外にも様々な人間の協力で、結果、被害者である中野梓について、殆ど世間に知れ渡る事はなかったし、梓は学校にも受け入れ
られる状態になっていた。

だから、梓の周辺は、比較的平穏に保たれたし、社会に復帰する事も可能な状態になっていた。


しかし、結局のところ、梓は閉じこもった。

家族と、それと、献身的に梓の介護をする唯以外は、顔を見る事すら出来なくなった。

梓は、学校に行かなくなった。それどころか、家から殆ど出なくなった。

その後、数ヶ月は、通院するため辛うじて外出する事が会った。

指の断面が形成され、通院の必要性が無くなると、それすら無くなった。

梓は、完全に家に閉じこもった。

唯は、その生活の殆どを梓に費やした。

常に、梓の傍にいて、食事や入浴やトイレの世話をしたり、泣き出したりわめいたりする梓を根気づよくあやし続けた。

一緒になって、梓の不幸を共有し、一緒にその不幸を受け止めようとした。受け止めようと努力した。

しかし、その不幸は、齢16の少女には重すぎて。

梓の精神は、徐々に蝕まれ、不安定になっていった。


梓は、時折、唯に愛機のムスタングを肩にかけさせ、指の無い手で弦を押さえようとした。指の無い手で、弦をかき鳴らそうとした。

しかしそれは、かなわない事だった。何度やってみても、絶望的に、不可能だった。

日を置いては、唯にそれをねだり、その度、自分の変わり果てたその手では、演奏が不可能な事を再確認し、その度に癇癪を起こした。

梓「こんな!こんなもの!いらない!もういらない!」

梓は、愛機のムスタングを感情に任せて叩いた。

いらないのは、ギターだったのか。それとも、その機能の大半を失った、自分の両手だったのか。

ばん、ばん、びいん、びいん、と、虚しく音を立てるギターを、梓は叩き続けた。

皮膚が裂け、筋肉が損傷し、炎症を起こし、ひょっとしたら骨にヒビが入っているかもしれない。それほどに強く、梓はギターを叩き続けた。

唯「あずにゃん!おねがい、おねがいもう止めて!」

梓「ううう!唯先輩!唯先輩!うわああああん!うわああああん!」

梓は、唯にしがみついて、泣きわめいた。唯も、梓を抱きしめ、一緒になって泣いた。

梓が辛うじて、正気を保っていたのは、唯の存在があればこそだった。

梓は、両親より、唯の介護を受け入れていた。

事件以来、唯はずっと、梓の家に泊まり込んで、梓のために献身した。

唯の両親は、当然それに対してポジティブな感情を抱かなかったし、梓の両親も反対したが、最終的には本人同士の希望で、今のような形になった。

唯も、梓に合わせて学校に行かなくなった。

学校の親友達は、皆、梓の事を心配していた。唯の事を心配していた。

一目、会おうと、何度も携帯を鳴らしたり、家を訪ねたりした。


だが、梓は、それを拒絶した。

こんな自分の姿を、誰かに見られたくないと。かつての親友達の善意を、拒絶した。

そして、親友達は、全員等しく、梓の心理状態を理解していた。

だから、今、過剰に梓に接触しようとしても、良い結果にならない事は分かっていた。

それでも、心配で心配でしょうがなくて、時折電話やメールを送ったりした。

梓も、時には、精神状態が良くなり、前向きな発言をしたりする事もあったし、足の指を移植する方法などを見つけて、一縷の希望を抱いたりしたが、基本的には梓の精神のベクトルは、ネガティブな方向へとひたすら傾いていった。

徐々に、精神がおかしくなりつつあった。

夜泣きをしたり、夢と現実が混同して、意味不明な言動をする事もあった。唯の介護の負担は、少しずつ上がっていったが、唯はそれを全て受け入れ、彼女の時間のほぼ100%を梓の為に費やした。


梓「唯先輩!唯先輩!どこですか!うわああん!唯先輩!」

夜間に目を覚まし、隣に寝ているはずの唯が見当たらず、梓は感情に任せて泣きわめいた。

唯「あずにゃん!あずにゃん、ごめんね!トイレ行ってたの、ごめんね!ここにいるからね!」

唯が、すぐに梓の元に駆けつけ、泣きわめく梓を抱きしめ、あやした。

梓「唯先輩!うわああん!いっちゃやだ!一緒にいて!お願い!うわああん!」

唯「ううう…!あずにゃん、大丈夫だから!ずっと一緒にいるから!」

二人は、抱き合って、泣きわめいた。

梓は、完全に唯に依存していた。

片時も、離れず、唯がトイレに行くときすら、傍を離れなくなった。

梓の両親に、何度、謝罪の言葉をかけられたか分からない。何度、感謝の言葉をかけられたか分からない。

梓が眠っているあいだ、唯は親友達とのコンタクトをとったり、妹の憂と会ったりした。

憂「梓ちゃん、良くならないの?ねえ、おねえちゃん」

唯「大丈夫。すぐよくなるよ。学校にだって通える」

憂「そうじゃないよ。うぅ。そうじゃないよお姉ちゃん」

憂も、梓の不幸を、一緒になって悲しんでいた。

憂は、空いた時間の全てを、梓の手の治療の可能性に費やしていた。

既存の療法を調べ、研究中の療法を調べ、再生医学を調べ、義手・義指などを調べ。

更には自ら医者や研究者にコンタクトを取ろうともしていた。

その多くは門前払いではあったが、憂もその時間の殆どを、梓の為に使っていたと言って良いだろう。

憂は、梓がどれだけの努力をしていたか知っていたから。

自分にとって、かけがえの無い親友が、この理不尽から解放される為なら、何だってする。その覚悟を抱いていた。

他の友人達も、平沢姉妹程の極端な行動は起こさなかったが、皆等しく、梓の事を思っていた。

律も、澪も、紬も、純も、それほど交流は無かった和も、顧問のさわ子も、皆等しく、梓の事を思っていた。



唯の献身的な介護もあり、梓の様態は少しずつ落ち着いて行った。

改善しては悪化し、改善しては悪化し、を繰り返していたが、梓の精神は、自分の不幸を少しずつ受け入れ、総合的には改善に傾きつつあった。

一時は、日常生活が困難なレベルで、精神に悪影響が出ていたが、徐々に落ち着きを取り戻し、今では唯が外出出来る程度には安定を取り戻していた。

梓は相変わらず、外出は出来なかったが、事件前の人格を取り戻しつつあった。

事件から、既に半年近くが経過していた。季節は移ろい、春になっていた。

唯は、留年した。

梓は、事情を斟酌され、進級扱いとなった。復学すれば、唯と同じ、二年生からの復学となる。

律、澪、紬は進級した。唯の留年については、色々と、思う所があったが、仮に復学したときの梓の負担を考えると、唯についていて貰える現状は、ある意味都合が良かった。そう思い、過度なリアクションはしなかった。唯も、その事に納得というか、満足していた。


梓は、少しずつ、友人達とのコンタクトをとり始めていた。

直接、連絡する事はまだ出来なかったが、唯越しに、少しずつメッセージのやり取りを始めていた。

親友達は、それを見て、心底安堵し、梓の状態の改善を喜び合った。

いずれ、梓の心の傷が癒え、学校にも来られるようになって。

そしたら、一緒に、前のように。

前のように…

きっと、いつか。


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最終更新:2011年04月04日 23:11