唯「ほら見て、あずにゃん。りっちゃん達」

唯が、梓に携帯の画面を見せる。梓が、それを興味深そうに覗き込む。

唯「今年も新歓ライブやったんだって。憂と純ちゃん、けいおん部に入ってくれたみたい」

梓「…じゃあ、ベースが二人ですか?プッ、変なの」

唯「え、変かな?変なの?」

くすくす、と、梓がおかしそうに笑った。唯もつられて、ふにゃっと破顔した。

梓は、少しずつ、笑顔を取り戻していた。

梓「唯先輩、ごめんなさい。背中、掻いてもらっていいですか?」

唯「うん。このへん?」

梓の背中を、こしこしと、スウェット越しに掻くと、梓は気持ち良さそうに目を細めた。

唯「気持ちいい?」

梓「…はい。ありがとうございます、唯先輩」

梓は、元々器用な質だった事もあり、時間はかかるが、日常生活の殆どは一人で出来るようになりつつあった。

ただ、こうして唯といるときは、唯に甘える事も多かった。

梓「…律先輩、ちゃんと練習してるんですね。びっくりしました」

唯「ふふ。あずにゃん、甘く見たら駄目だよ。りっちゃん、ああ見えて、やるときはやるんだから」

梓「…てっきり、私がいなくなったら、お茶ばかりしてるんじゃないかと思ってました」

梓の予想は、良い意味で裏切られ、律を始め、澪も紬も、新しく入った憂と純も、それまで以上に練習を重ねていた。

梓「この曲、いいですね。ずっと聞いていたい」

新歓ライブの演奏は、携帯を通じて、その映像が唯の元に届けられていた。

唯と梓は、寄り添って、その演奏に聞き入っていた。

梓「みんな、楽しそう。凄く、上手」

唯「また皆で演奏出来るよ。やっぱり、皆揃わないと、駄目だよ」

梓「…」

梓は、自分の手を見つめ、…首を横に振った。

梓「無理です」

唯「…あずにゃん…」

梓は、唯から離れ、仰向けに寝転んで、言った。

梓「…私は、もう、このステージに立つ事は出来ないんですね」

唯「あずにゃん…」

梓は、仰向けに寝転んで、顔を腕で覆って…泣き出した。

嗚咽。

長い、悲痛な、嗚咽。

梓は、自分の境遇を理解し、受け入れ…最終的に、自分の夢の終わりを、ついに理解した。


梓にとって、音楽は、夢であり、殆ど生きる意味そのものであった。

もちろん、ギターだけが、音楽として生きる道の全てではない。

しかし、幼少の頃から想い描いていた、梓の生きる道は、…最早、完全に、潰えた。

梓は、本当に久しぶりに、声を上げて、泣いた。

でも、これでもう、終わり。

梓は、紆余曲折を経て、受け入れた。自分の不幸を、受け入れた。

そして…自分の夢の終わりを、生きる意味の終焉を、受け入れた。

梓は、いつまでも、泣き続けた。


梓「じゃあ、そろそろ、行きましょうか」

ある晴れた日。

二人は、久々に外行きの服に着替えていた。

二人はこれから、日帰りの小旅行に出かける。これは、梓が言い出した事だった。

「奇麗な海が見たいです。岬があって、風車とかあって、人がいなくて景色がきれいな所」

唯は、紬達に連絡をとり、この旅行の準備を進めた。

ちょうどイメージ通りの紬の所有地があり、紬は快く手配を進めてくれて、梓がこの話を言い出した翌週には、旅行の準備は全て整っていた。

そして今日、二人は旅行に出かける。

唯「そうだね。そろそろ行こうか」

唯は小ぶりのボストンバックを肩にかけ、梓を振り返った。

唯「あずにゃん、それ、凄く似合ってる。凄く可愛い」

梓は、そう言われ、照れくさそうに自分の姿を見下ろした。

梓「唯先輩、ありがとうございます。これ、凄く、高かったですよね?」

唯「えへへ、そんな事ないよ。あずにゃんに、きっと似合うな、と思って。思わず買っちゃった」

梓の服装は、一目見て、全て上等なものだと分かった。

唯は、幼稚園から貯めていたお年玉の貯金を全て下ろし、梓の洋服を購入して来た。

今日の旅行の為でもあったし、また、雑誌で見かけて、梓に似合いそうだったので、いても立ってもいられず買ってしまった、というのも正しかった。

それを身につけた梓は本当に絵になっていて、そのまま雑誌に掲載したいくらいだと、唯はそんな風に思った。

梓は、久しぶりにお洒落をした自分の姿を鏡に映し、嬉しそうに笑みを零していた。

唯も、そんな梓の姿を見て、例えようも無い幸福感に包まれていた。

梓が、久しぶりに取り戻した、女の子としての日常。

それを享受する梓の姿が、堪らなく愛おしくて、唯は思わず梓を抱きしめながら、言った。

唯「じゃあ、行こっか!」

梓「はい!」


両親に見送られ、家を後にする。

二人は、喜んでいる様な、悲しんでいる様な、複雑な表情を浮かべていたが、終始、その暖かい眼差しが陰る事は無かった。

思えばずっと、二人は、唯と梓を見守って来た。

本当なら、肉親ではない唯は、部外者と追い出されても仕方が無かったかもしれない。

実の親として、娘の力になれない事の歯痒さや、周囲からの好奇の目もあった事だろう。

それでも、娘の希望を叶えてやりたいと、本来無関係であるはずの唯に、その半身とも言える娘を託していたのだ。

だからもう、梓の両親は、そのまま唯の肉親と行っても、過言ではなかったかもしれない。

唯はなんとなく、察していた。今日の、この旅行の意味。それをひた隠す梓。

そして、それに気づきながらも、表情に出す事無く、ましてや止める事も無く、静かに、暖かく、穏やかに娘を送り出す両親の胸中を。

唯と梓は、振り返り、笑顔で手を振って、別れの挨拶をした。

「行ってきます!」

「行ってらっしゃい」

…その姿が見えなくなった後、おそらく二人は、泣き崩れただろう。

それでも。

最後まで、二人は笑顔で見送った。

貫き通した。

娘の幸せを願って。嗚咽を噛み締め、涙を堪え、貫き通した。

幸多き、人生だったと。

幸多き家族だったと。

この光景を見た、誰しもがきっと、そう思っただろう。

晴れ渡った青空の下。

澄んだ空気と、舞い散る桜に包まれながら。その家族は、最後のお別れを交わした。



梓「…凄い!」

海沿い。水平線。晴れ渡った青空。

どこまでも続く岬に沿って視線を流すと、その先には大きな風車があり、風を受けて大きく回っていた。

遠くに、海鳥の群れ。遥か向こうに、ヨットの陰が見える。

一面、パノラマに広がる、まさに絶景だった。

それは、まるで絵画のように美しい光景だった。

梓「唯先輩、見てください!凄い!」

梓が、岬の方へぱたぱたと駆け、唯はそれを見守るように追っていた。

梓「凄い!奇麗!」

唯「ほんとだね、すごい!」

岬の端で、空を見下ろす。

晴れ渡った空は、そのまま海と繋がっているようで、二人はどこまでも広がる青い光景に目を奪われた。

しばし、その景色に見とれる。

唯「あずにゃん、疲れてない?」」

梓「えーと…えへへ。ずっと家にいたから、身体がなまってるみたいです。ちょっと疲れちゃいました」

唯は、岬の芝の上にレジャーシートを敷き、大の字に寝転がって、そこに梓を促した。

梓「あ…服、汚れちゃいますかね」

唯「いいよいいよ、気にしないで。気持ちいいよ?」

梓も、その隣に寄り添うように横になった。

梓「…うわあ、凄い。空が、凄い。こんなに近い」

そよそよと、風を浴びながら、二人はその自然を堪能した。

梓「ここ、凄いですね」

唯「うん、ムギちゃんのおすすめスポットだからね!」

唯は、もそもそと起き出して、ボストンバッグからバスケットを取り出した。

唯「そろそろ、お昼にしよっか。憂がね、サンドイッチ作ってくれたの。食べる?」

梓「はい!」

二人は、昼食をとり、また岬を駆け回った。

童心に帰り、二人で青い景色を横切りながら、疲れてはまた芝に横になって、しばらくしたらまた駆け回って…

そんな事を、飽きずに何回も繰り返した。

二人は、過言ではなく、人生で一番、楽しい、無邪気な時間を過ごした。


…心地よい疲労感の中、二人は、寄り添うように腰掛け、海を見下ろしていた。

まだまだ、日は高く、今日という日はたっぷりと残っていた。

でも…梓は、そろそろ時間だ、と思った。

その瞬間を、青空の下で迎えたかったから。

だから、そろそろ、時間。

梓は、唯に語りかけた。

梓「あの、ですね。ちょっと、聞いて欲しい事があるんです」

唯「ん。なあに?」

このまま、唯と旅行を堪能して、そのまま帰っても良いんじゃないか。

そんな想いが、梓の胸によぎった。

今日という日は、まだまだたっぷり残っている。

ここで一息ついた後は、浜辺に降りて、波と戯れて。

少ししたら、レストランで食事をとって、またここに戻って来るのだ。

その頃には、岬は夕日に包まれているだろう。

それはきっと、とても美しい景色に違いない。

そして、その光景を目に焼き付け、家路につくのだ。

それはきっと、素敵な思い出になるはずだった。

梓の胸に、そんな思いがよぎる。

でもそれは、駄目。もう、決めた事だったから。

梓「…あの、ですね」

唯「うん」

思わず口をつぐむ。

唯は、梓の言葉を待っている。

梓「あの、ですね。私」

唯「うん」

はやく、言わないと。

梓「…あの、ですね。凄く、言いづらいって言うか…あの。ぐすっ…」

梓は、思わず、泣き出してしまった。

笑顔で言おうと。

笑顔で言って、唯を悲しませないようにと、そう思っていた。

その決心は崩れ、梓は嗚咽を堪えることも、言葉を発する事も出来なくなっていた。

そんな梓を、唯は柔らかい表情で見つめながら、根気強く促した。

唯「あずにゃん。言ってごらん?」

梓「ぐすっ…うええ…。唯先輩。私、死のうと思ってます。今日、ここで」

唯は、梓の身体を抱き寄せ、あやしながら、先を促した。

梓「私、死のうと思ってました。ずっと前から。でも、唯先輩がいてくれたから、今まで生きて来られた。唯先輩がいなかったら、きっと、すぐにでも死んでました」

唯は、梓を撫でながら、相づちを打って、その言葉に耳を傾けた。

梓「唯先輩。唯先輩と出会えて、よかったです。本当に、よかったです。唯先輩がいなかったら、私はきっと、自暴自棄になって、悲惨で、惨めな思いのまま、死んでいました。唯先輩のおかげで、最後は幸せな気持ちで、死ぬ事が出来るんです」

梓を抱きしめる、唯。梓も、その両手を唯の背中に回し、二人で抱き合いながら、唯は梓の言葉を受け止めた。

梓「唯先輩、ごめんなさい。今まで、本当にありがとうございました。私にとって、唯先輩は、きっと人生で一番大事な人でした。だから、唯先輩に、私の最後、見送って欲しいんです」

唯にしがみつき、嗚咽を漏らす梓。

そして、それを抱きしめ、柔らかく包み込みながら、唯は言った。

唯「あのね、あずにゃん。私ね、最初から分かってたよ」


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最終更新:2011年04月04日 23:12