梓「私が桜高に入学して1ヶ月が過ぎた。

  新歓ライブで感動して入部した軽音部だったが、蓋を開けてみればそこは変わり者の集会所だった。
  終わらないティータイム。神出鬼没の顧問。あんまりうまくない演奏。
  先が思いやられるもののなんとかこの空間に馴染みつつある私。それがいいことなのかはわからないけど。

  淡い期待を込めて部室の扉を開く。今日も桜高軽音部は通常営業だ」


梓「唯先輩」

唯「なんだいあずにゃん」

梓「皆さんは何をなさっているんですか」

唯「見ての通りさわちゃんの衣装の試着会だよ」

梓「澪先輩が泣きそうですが」

唯「泣き出したらりっちゃんが止めてくれるよ」

梓「今日こそちゃんと練習できると思っていたのに」

唯「まあまあ。このケーキをお食べ。おいしいよ」

梓「唯先輩もしゃきっとしてください。いただきます」

唯「そう言いながら食べるんだね。あ、いちごとバナナ交換しない?」

梓「アイデンティティを奪わないでください」

唯「よーし。ここは私が一喝してみんなにやる気を出してもらおうか」

梓「そうしてもらえるとありがたいんですが、唯先輩のキャラじゃありませんね」

唯「そだね。じゃあやめとく」

梓「しまった」

唯「あずにゃん。私、将来おまわりさんのお世話になったらどうしよう」

梓「婦警姿の澪先輩を見ながら何を言っているんですか」

唯「あずにゃん。今は婦警じゃなくて女性警察官と呼ばなきゃダメなんだよ」

梓「はぁ、そうですか。それで、唯先輩は犯罪者志望なんですか?」

唯「そんなつもりは……。ただ、うっかり財布を忘れて食い逃げしたりうとうとしながら運転して人をはねたり……」

梓「唯先輩ならやりかねないですから十分気を付けてくださいね」

唯「もう。さすがの私もそんなダメな大人になるつもりはないよ~」

梓「心配です」

唯「えへへ、ありがとー」

梓「なにがですか」

唯「あずにゃんは心配ないね。今でも十分しっかり者さんだし」

梓「私の場合、見た目で舐められそうです」

唯「大丈夫だよ。これからきっと大きくなるから。そんなに小さいままなんてことはさすがにないよ~」

梓「どこを見て言っているんですか」

唯「成長しないなんてことはめったにないからね~」

梓「どこを見て言っているんですか。どうして律先輩の方を見たんですか」

唯「あずにゃん、この前親孝行したいって言ってたよね」

梓「はぁ、そうですけど」

唯「でもさぁ、あずにゃんのお父さんとお母さんはあずにゃんにどんな子になってもらいたいんだろうね」

梓「わかんないです。うちの親は結構放任主義ですからね。やりたいようにやれ、ってとこだと思います」

唯「うちだってそうだよ~。おかげでやりたい事は何でもできるよ~」

梓「やりたくないことはやらなかった姉と、やれることは何でもやった妹、ですか」

唯「ほんと、どうしてこうも姉妹で差がついたんだろうねぇ。アハハ」

梓「大丈夫です。成長しないなんてことはめったにないですから」

唯「だよね」

梓「唯先輩は先輩後輩関係で苦労したことありますか」

唯「ないよ。だって先輩はいなかったし後輩はあずにゃんが初めてだもん」

梓「そうなんですか」

唯「うん。私、部活は高校が初めてだし、軽音部に入部した時は澪ちゃんとりっちゃんとムギちゃんしかいなかったから」

梓「なるほど」

唯「何に納得したの?」

梓「先輩のいない部活ってすごく開放的ですよね。私も部活は高校が初めてなのであくまで想像ですけど」

唯「あー、私の友達も言ってたよ。先輩が修学旅行でいない時の部活は好き勝手やれて楽しかったって」

梓「そんな状態が一年も続けばどうなるか……ああ、恐ろしい恐ろしい」

唯「あずにゃん、疲れてるみたいだね」

梓「こういうのを五月病と言うのでしょうか」

唯「う~ん私はかかったことないからわかんないや」

梓「ですよね」

唯「羨ましいでしょ」

梓「ある意味」

唯「考えすぎるのはよくないよ。大事なのは、行き先を決めて一目散に駆け出すこと!」

梓「どんなにいい発言も、発言者は誰か、っていうので価値は大きく左右されると思うんです」

唯「私も五月病にかかりそうだよ」

梓「一緒に治しましょう」

唯「要するに練習すればいいんだよね練習!そうすればあずにゃんも満足でしょ」

梓「わかってもらえて何よりです。」

唯「でもね、あずにゃん。私一人の力じゃどうにもならないんだよ」

梓「どういう意味です?」

唯「私が『こんなんじゃ駄目ですーっ!』って言ったところで他のみんなが聞き入れてくれるとは限らない、ってことだよ」

梓「そんな薄情な仲じゃないでしょ、先輩方。それになんかイラっとします」

唯「女子高生は怖いんだよ、あずにゃん」

梓「私からしたら怖い先輩の方がやりやすかったかもしれませんね」

唯「あずにゃんってMなんだ」

梓「殴りますよ」


唯「さーて」

梓「どうしたんですか」

唯「そろそろさわちゃんも飽きてきたみたいだし先に練習始めとこうかなーって」

梓「そうですか。じゃあ」

唯「ちんたらしてんじゃねえぞ、なかのー」

梓「……なんですかそれ」

唯「怖い先輩はいかがですか?」

梓「役者不足ですね」

唯「ぶー」

梓「……しょうがないですね」

唯「ん?」

梓「練習、始めましょうか。唯先輩は忘れっぽいから絶対に忘れないように身体に叩きこんであげます」

唯「優しく……してね?」

梓「やっぱり一人でしてください」

唯「そんなぁ。一緒に弾こうよあずにゃ~ん」

梓「しょうがないですね」


―――――

梓「私が桜高軽音部に入部してから2ヶ月が過ぎた。

  夏が近付き日に日に気温が上昇しているにもかかわらず部室の温度は相変わらず。
  私も順調に洗脳されつつある。澪先輩が唯一の良心だ。
  でも私だって普通の高校生活は送りたい。だからまともなクラスメート達との交流も怠らない。
  今日の体育祭だってクラスのみんなと盛り上がれたらいい。

  軽音部のことを考えるのはそれからでいい」

唯「あれ?あずにゃんどうしたの?」

梓「唯先輩こそ何やってるんですか、こんなところで」

唯「いやぁ、テントの中は暑くてどこか涼める場所を探してたら、いい木蔭があったから」

梓「競技、出ないんですか」

唯「午前中に全部終わっちゃったよぉ。私の二人三脚見てくれなかったの?」

梓「ムギ先輩が気の毒でした」

唯「これでもちゃんと練習したんだよ」

梓「そうですか。応援はしなくていいんですか」

唯「ここからするよ~」

梓「さっきまで寝てませんでしたか?」

唯「あずにゃんは真面目だねぇ」

梓「こうして見ると唯先輩が不良に見えます」

唯「あ~体育祭なんてまじだりぃ~」

梓「ちょっと背伸びした男子中学生みたいです」

唯「ひどっ」

梓「唯先輩じゃあワルにはなれませんよ」

唯「じゃああずにゃんがやってみせてよ」

梓「……平沢ァ。たい焼き買ってこいやぁ」

唯「かわいいね」

梓「むぐ」

唯「あずにゃんはどうしてこんなところに?」

梓「飲み物を買いに行った帰りに唯先輩を見かけたので」

唯「へー……」

梓「……飲みたいんですか?」

唯「へへ」

梓「しょうがないですね」

唯「ありがと」

梓「おいしいですか」

唯「午後の紅茶、かぁ」

梓「どうしたんですか」

唯「いやぁ、昔を思い出してね」

梓「何かあったんですか」

唯「昔家族で出かけたときにね、のどが渇いた私はお母さんのバッグの中にあった水筒を取り出したんだ」

梓「はぁ」

唯「いつも通りムギ茶が入っていると思ったんだ。そのつもりで口に含んだら」

梓「紅茶だったと」

唯「想定外の甘さと初めての味に私は」

梓「嘔吐した」

唯「いやちょっとびっくりしただけだよ。嫌な思い出だけどね」

梓「そうですか」

唯「今はムギちゃんのおいしい紅茶を毎日飲んでるから嫌な思い出も忘れちゃってたよ」

梓「市販の安い紅茶が苦い記憶を引きずり出したんですね」

唯「甘い記憶だよ」

梓「ですね」

唯「あずにゃんもここで一緒にサボらない?気持ちいいよ」

梓「サボリと認めちゃいましたね」

唯「二人でサボれば怖くないよ」

梓「怖いです」

唯「あ、ういー!がんばれーっ!!」

梓「ここからじゃ聞こえませんよ」

唯「え~、今目が合ったよ~」

梓「ほんとですか」

唯「うん。それにしてもクラス対抗リレーのアンカーなんてすごいね~」

梓「そうですね。一位ですね」

唯「いいなぁ。みんなにあんなに褒めてもらえて」

梓「唯先輩でもそういうこと気にするんですね。意外です」

唯「去年の栄冠を取り戻したいよ」

梓「去年?」

唯「私、去年の借り物競走で一位だったんだ」

梓「へー」

唯「興味なさそうだね」

梓「いえいえ。それで?指定された借り物はなんだったんです?」

唯「『好きな人』」

梓「……へー」

唯「後で聞いたんだけどね、うちの高校の借り物競走では必ず一枚入ってるレアカードらしいよ」

梓「妙な伝統ですね」

唯「女子高だからこそ、なのかもね。共学だったら色々面倒なことになりそうだし」

梓「……それで、唯先輩は誰を連れて行ったんですか」

唯「和ちゃん」

梓「和さんって唯先輩の幼馴染で生徒会の?」

唯「うん」

梓「面倒なことになりませんでしたか」

唯「え?」

梓「その、変な噂が立ったりとか」

唯「ええと、うん。あずにゃんが想像しているようなことは何も」

梓「本当ですか」

唯「私普段から和ちゃんにはしょっちゅう引っ付いてるし私たちが幼馴染ってことはみんな知ってるから」

梓「しょっちゅう引っ付いてる時点で変な噂が立ってもおかしくなさそうですが」

唯「もしかして私とあずにゃんのことで変な噂が立ったりしてるのかな?」

梓「いいえ、ありませんよ。……今のところは」

唯「まぁ私は構わないけどねー」

梓「私が困りますからこれからは人前で抱きつくのはやめてください」

唯「えぇ~」

梓「じゃあ私はそろそろ行きますね」

唯「えぇ~? 行っちゃうの~?」

梓「行きます。この後出番なので」

唯「そっかー、ならしょうがないね」

梓「しょうがないです。それでは失礼します」

唯「あ、何に出るの?」

梓「……借り物競走です」

唯「……当たりくじ、引けるといいね」

梓「……勘弁してほしいです」


―――――

梓「私が地べたに張り付いたチューインガムを踏んづけてから3ヶ月たったある日のこと。

  休日というのに無駄に早起きした私は外の空気を吸いに行くことにした。
  河原沿いの道を自転車で駆け抜けると結構多くの人とすれ違った。
  ランニングしているおじさん、犬の散歩をしているおばさん。
  涼しげな風と穏やかな朝の陽ざしを全身に受けながら私はしばし解放感を味わっていた。
  いたのだが。

  私はどうあがいてもこの人から逃げられないのだろうか。私は足をくすぐる猫じゃらしを蹴飛ばした」


唯「お、あずにゃんおはよー」

梓「おはようございます。こんな時間にこんな所で会うなんて思ってもみませんでした」

唯「えへへ、今日は珍しく早起きしちゃってねぇ」

梓「奇遇ですね。私もです」

唯「それからジョギングしよう! って気分になってね」

梓「どうして河原で寝そべっていたんですか」

唯「ちかれちゃって」

梓「何がちかれちゃって、ですか。危ないじゃないですか」

唯「へ? 危ないって」

梓「草むらに女の子が寝そべっているのを見たらそれはよからぬことを……すみません失言でした」

唯「何なの?」

梓「背中、汚れちゃいませんか。湿ってるみたいですし」

唯「帰ったらシャワー浴びるからいいよ~。あずにゃんもおいで。一緒にこの大空を仰ごうよ」

梓「遠慮します」

唯「相変わらずだねぇ」

梓「まぁ……座るくらいなら」

唯「とりゃっ」

梓「うわっ」

唯「えへへ」

梓「はぁ」

唯「雑草もいい匂いでしょ」

梓「ないです」

唯「夏草や えっと……」

梓「兵どもが夢の跡」

唯「そうそう、それ」

梓「私の夢も三ヶ月前に潰えてしまったんでしょうか」

唯「あずにゃんの夢?」

梓「いえ夢ってほどのものはありませんでした。ただ、幻想を追うのはよくないってことがよくわかりました」

唯「げんそう?」

梓「幻想を生み出した人と幻想を殺した人、一緒だったっていうのがひどい話ですね」

唯「よくわかんないけど、私はあずにゃんと初めて会った時、これから楽しくなりそうだなって思ったよ」

梓「……そうなんですか」

唯「うん。だってあずにゃんすごく可愛いもん。いじくり回したらもっともっと可愛くなりそうだなって思ったよ」

梓「……実際どうでした?」

唯「私の予想通り!」

梓「私の顔、すごく疲れてるように見えませんか?」

唯「寝不足? ちょっとここで休んでこうか。付き合うよ」

梓「帰ります」

唯「あ、待ってよぉ」

梓「唯先輩ももう帰ったらどうですか? 憂があたたかい朝食を用意して待ってますよ」

唯「まぁ……そうだねぇ。あっ、あずにゃん自転車で来たんだね」

梓「はぁ、そうですけど」

唯「この時間ならおまわりさんもいないよね」

梓「もしかして」


2
最終更新:2011年04月15日 23:31